東の空に、桃色の霞のようなものが見え始めた。
 わたしもトウヤも、息を詰めて、その光景に見入っていた。最初は一点の染だったものは、空が白むにつれて、じわじわと広がりながら色付きながらその輪郭をふやかしていく。ひっそりと朝ぼらけに咲く一輪の花のようだった。そしてそれは、空が空らしい色を得はじめるにつれ、全く一輪でなかったことが知れる。その頃には、朝露に湿る草原の上に転んでいたトウヤは起き上がってしまって、待ってられない、行こうハリ、とひそめて言って駆け出したのだった。
 声をひそめたくなる気持ちはよく分かる。日の昇ってしまえば実に汚らしいココウというこの町も、朝焼けに濡れるまでの薄ら暗い時間帯には、何か神秘的な静けさを帯びているかのように思えた。タンタンと地面を蹴る主の足音はその静謐の中に尽く吸い込まれていた。人と言うのはみるみるうちに走るのが速くなる。以前はあれが家の周りを一周する間にわたしが二周はできそうなものだったが、懸命にならなければその速度についていけなくなったのは、いつ頃の事だったろう。
 どこかで鳥のさえずりが聞こえる。あれは何々の声だ、と誰も必要としない解説をいつもの主人なら加えたろうけど、今日はそれさえしなかった。ただ、ちらちらと、時折背後を振り返りながら。
 たどり着いた家の扉を、主は叩く。最初はごく控えめに。三度目くらいからは、めいいっぱい力強く。そうしないと相手が起きて来はしないと、ここひと月くらいでもう学習済みだ。
 ギィッと扉が開いたのは、叩きはじめから数えてゆうに五分を過ぎた頃だった。苛立って足踏みしたいくらいの心持ちを抑えて、相手を見上げる。歳にして三つしか違わないのに一人で生きているのだというその少年は、随分背が高くて、とても十三などには見えなかった。
「おう、トウヤか、なんだよ朝っぱらから」
「約束してただろ、見にいくって」
 そう急かしても、少年はぽかんとするばかり。どこで怪我してきたのだろう、顎に貼り付けたガーゼの上から傷を痒そうに撫でながら、まるでこちらに非があるとでも言わんばかりの表情で首を傾げる――双眼鏡! とトウヤが両拳を上下に振ると、ああっそうかあれは今日だったなうっかりうっかり、と言いながら少年は家に戻り、ガサガサゴソゴソガチャンパリンと何かを割ったかと思うと、ハッハッハと年不相応の笑い声を上げつつ戻ってきた。
「ほらよ。欲しいならそのまま持っとけ。俺はいらん」
 手渡されたのは黄色と黒のカラーリングの見るからに安そうな品で、わたしは少しがっかりした。けれどもがっかりしたのは、どうやらわたしだけらしかった。


 足は速くなっても、背は相変わらず同年代のそれと並べて随分低い。自室まで戻り、ひとつしかない窓の桟に足を掛けると、主人は屋外の方へと身を乗り出した。
 一旦はボールに戻したわたしを、ぐいっと手を伸ばして屋根の上へと開放する。空合いは大分青に近づいていた。すんと冷えた明け方も好きだが、徐々に空気の火照っていくこれからの時間帯は、自身の調子が上がっていくのが目に見えて分かるので好きだった。
 手伝っていらないよ、と、見えない所でトウヤは言った。わたしはおとなしく屋根の上で待っていた。東の方を見るのは、主人が昇ってくるまでお預けだ。ぬうっと伸びてきた手――右の肌色のと左の赤黒いのと両方が、屋根の縁を掴む。わたしはそろそろと近づいた。掛け声と共に飛び上がろうとした人の子の体が、乗りきらずにそこから滑り落ちそうになる、それを体重の全部をかけて引っ張り上げて救助するのが専らのわたしの役目である。
 なんとか這い上がってきた。……また不本意に助けられたからと言って、不機嫌になっている暇はない。むっとしてわたしを見下ろしてくるのも一瞬で、トウヤはすぐに、パーカーの大きなポケットにしまいこんでいた例の双眼鏡を取り出した。そしてわたしたちは、どちらからともなく揃って東の空を見上げる。
 果たして――そこに迫っていたのは、『綿草』の大群落であった。
 ……わたしの隣に座り込んでいる生き物が、双眼鏡越しにそれを見ながら、満足気な微笑みを浮かべる。わたしにはそれだけで十分だった。この地域を春先に遊泳する綿草の群落があるという話は以前から耳にしていたが、移住してきたこの町が毎年それを観察できるポイントであったことは全くの偶然だ。その事を知った時の主人の目の輝きと言ったら、こちらに来てからはなかなか見られないものだったから、この情報を渡してくれたあの、いかにも適当で何となく鬱陶しい長身の少年にはひとまず感謝を述べておく。
 ほとんどがハネッコだけれど、ポポッコもけっこういる、とトウヤは小さく呟く。一旦は双眼鏡を外して肉眼で空を見上げたものの、わたしの顔など振り返りもしなかった。別にそれは構わないが。ああ、ワタッコもちゃんといる、見えるハリ、あそこだよ、と空を指すその爪の先まで嬉しげだから、夢中になっていたって、本当に構わない。
 気が付けば、初めは遠い桃色の霞だった綿草の群れは、空をゆく細切れの雲となって、わたしたちの頭上をたゆたっていた。黒く汚れた赤い屋根にごろんと横になって、使い方よく分からないな、と呟いて、トウヤは双眼鏡をポケットに戻す。
「ワタッコは凄く少なくて、ハネッコやポポッコを取り囲むようにして飛んでいる。ワタッコだけは腕の綿毛で風を捉えることができるから、ああやって他の綿草たちを誘導しているんだ……」
 凄いなぁ――うっとりとため息をつくようにトウヤがそう言った、異変は丁度その時だった。
 サッと視界に飛び込んだ黒い塊に、わたしは咄嗟に身構えた。だどもそれがこちらを襲ってくることはなかった。あれはヤミカラスだ。大した敵ではない、ココウでは野生で普通に見られる。あれが厄介になるのは名の通り闇の中だけであった。
 ただそれが綿草たちには事情が違った。特にまだ幼い綿草は、捕食者に対してろくな防衛措置を持たないことも多いのだ。あっ――とトウヤが声を出す間には、浮遊していた中のハネッコの一匹が翼に撃たれて、群れから外れ落下を始めてしまっていた。
 二度三度とヤミカラスは『翼を撃』った。ぷきぃ、と弱々しい悲鳴が発せられた。ぐったりしたハネッコの頭の、一対の草の片方を、太い嘴で咥え、引きちぎる。葉は食われるでもなく空に舞った。ちぎって遊んだのか。ハネッコはバランスを崩す。あれが不揃いならハネッコは上手く風を得られない、ヤミカラスはそれを知っているのだ。
 捕食者と言ったが、捕食にも見えなかった。彼は獲物を執拗に弄んでいた。軽すぎて落下もしきれぬ一体の上空を、心配そうな顔をしながら、ふよふよと綿草たちは漂っていくばかり。同胞の窮地とも、飛行の獣に成す術は持たぬか。情けない――同じく不快感を噴出させた隣の主が立ち上がったので、わたしはすっと両腕を構える。
「ミサイル針!」
 翼の付け根を狙え、と、うちの主にしては痛々しい命令も付け加えて。ふっと力を込め、狙いを定め放つ土色の弾頭はサクサクと、思い通りの場所に突き刺さった。早朝にガァガァと鳴り渡る不快な鳴き声。最後に嘴へ三発、額へ一発打ち込むと、ご勘弁と言わんばかりにヤミカラスは彼方へ逃げていった。
 撃退作戦は大成功だ。どんなものよ、と主を振り返って、わたしは――まさに肝の冷える思いをした。それはだって、生まれてこの方連れ添ってきたトレーナーが見知らぬポケモンを助けるために二階建ての家の屋根から飛び降りようとしていれば、植物様のポケモンだとしても肝は存分に冷える。
 ハネッコは地についていられぬほど軽い生き物だ。落下したところでなんともない。なのに何故あなたはそうして余計なことを、と叫びたくても、言葉が通じない以前にもう色々遅かった。悪い足場を駆け抜けて、ふわふわ落ちてきたハネッコを抱いて、トウヤはほっとした表情を浮かべた。勢いづいたその足がそのまま空を切った。あれ、と見下げる、そこにもう屋根はない、あっあっと右足左足と虚空を蹴飛ばし急激に体躯が傾いていく、なんて茶番だ。まるで漫画ではないか。
 悲鳴が早朝のココウを裂いた。主人の姿は赤屋根の下へと消えていった。











 ……目を覆いたくなるような事態に陥らなかったのはひとえに、たまたま綿草の群れを見に起きて出ていたヴェルさんが主の下敷きになってくれたお陰である。この非常にふとましい(などとはとても面と向かって言えないが)獣の危険察知能力には本当に頭が上がらない。今度朝食でも譲って差し上げよう。
 かくして朝餉の時間になって、事を知られたトウヤは叔母である女にまた随分叱られた。ほかほかと湯気の立つ汁を啜りながら少しは反省しているようで、その中に入っていた『あげ』の一つを、てろりとヴェルさんの足元に置いた。償いのつもりなのだろう。
 女が朝食を下げてしまうと、ヴェルさんと、わたしと、片方の草が半分くらいにちぎれてしまったハネッコを並べて、トウヤはそれらの前に座り込んだ。
 ハネッコは名前をニコルと言った。飄々としていて掴み所なく、ゆるやかな声色でなかなか辛辣な事を言うその性分は、わたしの中のハネッコの気ままなイメージにぴったり即していた。
「お前、どうするんだ、これから一人で」
 仲間たち行っちゃったぞ、とトウヤは叔母に気を遣ってか、なるべく声をひそめて。そこで声をひそめる必要性は、わたしにはいまいち理解しがたい。
 そんなの分からないよ、元からね、とけろりとした顔でニコルは言った。
「仲間がいなくたって、ぼくは漂っていくだけさ。風に乗ってね。今までだってそうだったのさ」
「……人間にわたしたちの言葉は通じないよ」
「へぇ! そうかい」
 それって、お腹がすいたとき、君たち困らないのかい? ――たまに困る、と真面目に返答しかけたわたしを制して、人の心配してる場合かね、とヴェルさんが横槍を入れる。
「あんた、置いていかれちまったんだよ? 昼になれば風向きも変わるし、明日のこの時間だって同じ向きに吹いてるとは限らない。あんたたち風に乗らなきゃ動けないんだろ。ぼさぼさしてると本当に追いつけなくなっちまうよ」
「だから、いいのさ、ぼかぁ一匹でも」
「――おばさん」
 まるで会話を理解していないトウヤが声を上げて、一同はひとまず沈黙した。
 なんだい、と奥から顔を覗かせる叔母。あれに接するとき、トウヤはいつも怯えるように声を発する。だからわたしも、何とも分からずとも、その人が少しだけ苦手であった。
「あの……少し、出てきてもいいですか」
 びくびくしている中にも、敬意と感謝が滲んでいるから、嫌いになるとまではいかないのだけれど。
「お店手伝えなくてすいません、でも、このハネッコ、……あの……、……。」


 中央通りを駆け抜けていくトウヤは激しく息を弾ませていた。これは少しまずかった。まずいぞ、という合図を目線で送っても、気付きはしない。こういう風な夢中は、いっこうに構わなくはない。自分の体の事を、わたし以上に分かっていないなんてことはあるまいに。澄んだ瞳は、前の、前の、そのまた前くらいを多分捉えていて、わたしには理解しようもできなかった。
 少しだけ賑やかな通りを抜ければ、閑散とした農村地帯があって、その向こうは森であった。一般と比べれば決して高くはないのだけれどそれでも十分に高く見える樹林の間には、もうもうと草が生えていて、小さな足を絡める。なんとかわたしは追いついていった。主の髪から滴った塩の液が、わたしの頭の花に降って、ぱっと弾けた。
「君の主人は無茶苦茶だね」
 ぼくをこんなとこに突っ込むなんて。ニコルの声がした。トウヤが背負っているナップサックからは、長い葉っぱが一枚と、長かったのに途中で食いちぎられてしまった哀れな葉っぱが一枚はみ出して、風圧にわたわたと揺れている。
「……申し訳ない」
 それだけ返すのに精一杯だった。体力の呼吸の問題ではない。体の問題と言えばそうだが、それは主の方だった。
「仲間と、はぐれるの」
 トウヤは駆けながら切れ切れに言った。木々の、我が、我がと広げる枝葉の向こうには、桃色の群れがゆったりと流れていくのが、まだ遠方に見え隠れしている。
「辛く、ないか」
「そうかな。ぼくはそう思わない」
「……自分の意志で、出てくのは、いい。でも、飛べなく、なって」主は少し咳き込み、続けて大きく息を吸う。「ついていけなく、なって、一緒に、いれなく、なって……置いて……いかれる。なんてさ」
 辛いよ、と断言して。少し歩調を緩め、ナップサックを前に回して、葉っぱの根っこをぎゅっと掴むと、トウヤは強引にそれを外へと引っぱり出した。そういうところでこの人も適当だ。
「いいい、こらこら、葉っぱを掴むな痛い痛い」
「ほら、見えてきた」
 もっと歩調を緩める。そうして、両手に挟んだ桃色の体を、トウヤはよく見えるように高く掲げた。……綿草の群落は随分近づいていた。ニコルの存在に気付いているのか、こちらを見て草を振っているハネッコも数匹いる。
「ぼくは、あそこに帰るのかい?」
 ニコルはそう問うた。

 わたしとトウヤとは、しばらく歩き続けた。
 お喋りな個体かと思ったが、案外ニコルはそうでもなかった。わたしたちが黙っているので、ニコルも黙っていた。ずっと空を見ていた。けれども、気になってもいたのだろう。最初は両手で支えていたのに、途中から右の手だけで無理矢理に抱えてこんでいる人の子の、色の変わった左の部分。そこをニコルは幾度も見下ろした。
「腕が熱いね、左の腕だ。心臓よりも熱い」
 綿草という種族はポポッコにもなると温度にとても敏感で、温度計の代わりに連れ歩いたりする人間もいるとは聞くが、そうか、ハネッコもそうか。
「ああ」
「最初は気付かなかったけれど、このヒトはよく見たら色が変わっているね。変異種ってやつかい?」
「いや」
 わたしは少し言い淀んだ。
「……そいつは後天性なんだ。君の葉っぱと同じだ」
「なるほど。そう言われるとよく分かる」
 不意にトウヤは立ち止まった。
 ……わたしはその顔を見上げた。あの友人とトウヤとの身長差より、わたしたちの間にはもっともっとの差があった。その目はやはり遥か前を映しているのに、顔面は薄ら白くて、せわしく息を漏らす唇は震えていた。ぽたぽたと落ちる汗はわたしの花でなく、ニコルの草を濡らした。少し休もう、と。静かな目線の訴えが、通じたのかどうかは分からない。
「……ごめん。ちょっとだけ待って」
 呟いて、ニコルを抱いたまま木陰に腰を下ろして、幹に背中を預けた。ぜっんぜん構わないさぁ、とニコルはひょうきんに言った。そいつが少し、わたしは気に入った。
「ごめんな。すぐにでも追いつきたいのに」
 ニコルごと膝を抱える主人は、うずくまっているようでもあった。
「運動すると、だめなんだ。すごく熱くなる。じっとしていても、ずっと体がだるくて、微熱が続いてる。調子が悪いと、左腕が、自分のものじゃないみたいなんだ。動かなくて。鉛を流し込まれたみたいに」
 自分の表現が恐ろしかったのか、トウヤはわずかに身震いをする。わたしは左側にそっと寄り添った。その熱は、半分憎くて、けれど半分は心地が良い。
「……ごめん」
 汗を拭ってそれが立ち上がろうとする腕の中で、ニコルは身じろぎした。不揃いの草がふわふわと揺れる。けれどそれだけか。やはり若草、たいした技は覚えていないらしい。
「辛かろう。もういいよ。ぼくはいい」
「ごめん。大丈夫だ。なんでもない」
「いいってば」
 行こう、と言ってニコルを抱えたまま歩き出す背中を、わたしは何も言わずに追いかけた。
「おいってば。何か言いなよ、君からも。いいって言ってるのに。人間って、こうも聞く耳を持たないのかい」
「だから、通じないんだよ。何を言っても」
「ああ……」
 そうか、人と暮らしてるポケモンっていうのは、君っていうのは、いつも辛い思いをしているんだね。場違いな労いの言葉に、返す言葉がわたしにはない
 むせかえるような森の緑の匂いというのが、実はわたしは、好きではない。サボテンだって群生はする。仲間がいると落ち着いたっていいはずだ。なのに好きではない。生まれた時から人の匂いに囲まれて、生きてきたからなのだろうか。少なくとも、孤独を愛するのとは違う気がした。
 けれどこの群れで生きていた綿草は、違う事を言う。
「さっき、群れとはぐれて辛いだろうと言ったけれど、そんなことあるもんか」
 極めて飄々と、自然なれど感情的な抑揚は殆んどないその語り口。
「群れているのは、生き残る確率を上げるためさ。一匹盾にして、大勢が生き残る。さっき鳥に襲われたみたいに、運の悪い奴はああして犠牲になって、そのまま切り捨てられて、おわり。誰かを犠牲にして、他のやつらが生きる。ぼくは切り捨てられた生贄さ。でも生き残れた。生贄なのに生き残れた。それが、せっかく生き残れたのに、元の木阿弥だなんてさ、また生贄になりたいだなんてさ、思わないだろ、ぼくはぼくのために飛んでいたいのに」
 だから、もういいってば。離してくれってば。あまりにも淡々とした声色だから、それが人の子を開放するためなのか、それとも本心からの言葉なのか、わたしには判別がつかなかった。
 綿草たちの進行は存外にゆっくりであった。歩いていても、気付けば天辺が桃色で埋め尽くされているくらいになって、それを少し追い越しまでした。すると、なにを思ったか、またトウヤはナップサックを降ろして、ニコルをぐいぐいとそこに押し込むのだ。そして――トレーナーベルトからボールを外すと、おもむろに、それをわたしにまっすぐ向けた。
 まずい事態だった。はっとした瞬間には、もうわたしは狭い部屋の中に吸い込まれていた。これでは何をしはじめたところで、もう止められない。無理矢理ボールを出る術をわたしはまだよく知らなかった。おうい、なにしてくれるんだぁ、という間抜けなニコルの声が透明な壁越しに響く。わたしが小さく縮んでいるから相対的に随分大きく見えるトウヤは、ナップサックを背負いなおすと、真剣な目つきで、こう言った。
「木に登る」
 ――ああ、もう! ばたばたと壁を叩いて抗議の意を示せど、こういう時、これが言う事を聞いた試しなどない。木に登って、と右の拳を握って、作戦を説明してくれるトウヤは、疲弊の中にも幾分輝いて見えるから困った。本当に困った。
「近づいて話をしてみる。君の仲間たちに、君が飛べるようになるまで待ってもらえないか、僕が掛け合ってやるからな。僕は君より大きい声が出せる。近づけなくたって大丈夫だ。安心してな。きっと待ってくれる」
 ニコルが何か返す前に、靴を脱いで靴下も脱いで裸足になると、よっし、と一人意気込んで、厄でも落とすように左手を軽く振って、手近な木の幹にトウヤは飛び付いた。
 木登りは得手だ。高いところにいるのはお好きなようで、母親や友達に何かつまらないことを言われた暁には、よくにじにじと木を登った。ご贔屓の一本があって、ある程度まで登るとボールからわたしを出して、膝の上に乗せて、下手な鼻歌でも奏でながら沈みゆく夕日を眺めている。そうしていると母や父やが迎えに来るので、危ないから降りて来いと慌てふためくそれを見下ろし、嬉しげににやついていたものだった。
 するすると高度を上げていく景色。左手の様子が気になって仕方なかったが、いくら背伸びして見ようとしても、ベルト右腰の位置からでは見える範囲は限られている。
「君の主人は無茶苦茶だね」
 ボールの中のわたしに聞こえていることがよく知れたな。さっきと全く同じことを、ナップサックに詰め込まれたままニコルは繰り返した。
「無茶苦茶だ。なぜこんなに必死になっているんだい、このヒトは」
 茂る緑の中を抜け、光が増していく。もうちょっと、と言いながら真上に伸びた左の手の甲をわたしはちらりと見た。ちゃんと動いている。杞憂だったか。だとしても、危ない事はもう、本心からすればやめてほしい。
「当事者のぼくより、うんと必死になってるじゃないか。これじゃあまるでぼくが冷たい生き物みたいだ。そんなのってあるかい? 悲しい思いをするのは、結局のところはぼくなのに」
 やはり、悲しい思いをしてるんじゃないか。
 こんなに高いところまで登ってきたのは久しぶりだ。幹が二股に別れていてバランスの取れそうなところにトウヤはわたしを開放して、ニコルを引っ張り出して、それを持たせた。ニコルを抱えているわたしの前で、別の枝に足を掛けバランスを保つと、両手をメガホンにして口に添える。すうっと息を吸った。
「……おぉーい!」
 随分頑張っているけれど、声が大きい方でないのは、わたしはよく知っている。だが綿草の群れもそれほど高い場所は飛んでいないから、幾匹も揃えたように揃って、黄色く小さい星の目をきょろりとこちらへ下してきた。トウヤはぶんぶん両手を振る。転げ落ちないでくれよ。
「待ってくれ! 君たちの仲間がここにいるんだ! 怪我して、飛べなくなってる!」
 ニコルは何も言わなかった。わたしに抱えられながら、微笑むような顔をしてその背中を、その向こうの桃色の雲間を見つめていた。乾いた風が撫ぜる。上空はもっと強力みたいだった。トウヤの丁度背中側へと、急激に群落は流されていく。危なっかしい動きで体の向きを変えた。こちらに対面し、また空へ声を張る主の頬は、逆光でよくは見えずとも、どこか赤らんでいた。
「そんなに急ぎでもないんだろ。きっとすぐによくなるよ。なあ、どこへ行くんだよ! ちょっとでいいんだ、ちょっとだけ待っててやれよ」
 そんなに大きい声が出せたのか。よく見えずとも、その表情は歪んでいた。強張っていた。わたしは目を閉じた。誰に叫んでいるのだろう。ニコルは淡くため息をつく。
 一体どこに。届かないのに、一体誰に叫んでいる?
「置いていかないで、置いて、いくなよぉーッ! っ、……――」


「――空を飛べるって、どんな気分?」
 飛べなくなったやつに、そんなこと聞くのか。気分を害したかと思えば、案外ニコルはそうでもない。会話ができないことはしっかり覚えたのか、無視して鼻歌なんか奏でていた。口は悪いけど気の良い奴だ。なんだかそいつには見所を感じる。
 しっかりした枝に腰かけて、だらんと足を下げて、トウヤは空を見ていた。それに抱かれているニコルも、そして傍に立つわたしも。無抵抗な綿草の群れは、風に押し流されるままに、西の空へと遠ざかっていく。
「僕も、空が飛べたらなぁ。空が飛べたら、帰りたいところがあるんだよ」
 ひとりで言わせておけばいい。わたしはそう言った。そうかいそうかい、とニコルは返した。どっちに返したのかは分からない。その頭を、トウヤは指先で柔らかく撫でる。
「……おばさんのことは好きだよ。ヴェルのことも。凄くいい人たちなんだ。あの家だって居心地がいい。……でも、たまに、いたたまれなくなる。僕は、ここに置いてもらってよかったのかな、って」
 優しい風が、ささくれ立った興奮をゆるやかに冷やしていく。
「思い付きの風に吹かれて、僕がふらふら飛んでいかないように、おばさんはとても気を張っている。うっかり家出させないように、気を遣ってくれている。……あのな、僕は、僕なんかはどこかへ飛んでいってしまった方がいいと思っている。誰もいないところへさ。飛んでいってしまえたら……多分、これ以上、誰かに迷惑かけることもない……」
 時折、茫然と、魂の抜けたような顔をして、主人はそういう事を言った。相手は、わたしだったり、またあの友人だったりして。言ってもどうしようもないことは、きっとよく知っていて、それでも言うから、わたしはいつも黙って待った。その気が収まるのを、分からないふりをして待っているしかなくて。
 その時だ。ぶわっと吹き上げるような風が、唐突に、トウヤの腕の中からニコルを奪い去った。わああっと声が二つ分、ココウの外れの空を駆けた。慌て立ち上がろうとして約束のように体を傾かせる主人をわたしは引っ張って捕まえる。凝りもせずばかなことを。
「わあああ……あ、あれ?」
 なんだ飛べるやぁ――声に、顔を向ける。体を傾かせているのは主人だけではなかったのだが、それは空中で、見事なバランス感覚で上手く体を浮かせていた。
 今度はそっと背中を押すくらいのゆるやかさで、風はニコルを持ち上げていく。落ちかけた恐怖心から幹をしっかり抱きしめながら、口をぽかんと開けて、トウヤは宙をゆくニコルを見ていた。わあ飛べた、わあい、と言いながらも、少し風が強まるとくるくる回転して、ぽすんと枝葉の中に挟まってしまう。もうしばらくぽかんとしてから、からからとトウヤは笑った。思い通りに風を掴めていないのなら、多分笑いごとではないのだが。
「なあんだ、飛べるじゃないか。よかったねハネッコ。よかった……」
 その笑顔が少し寂しげに見えたのは、気付かなかったことにするのが得策だ。
 ああ。――得策だなんて、笑ってしまう。最も身近な人が抱えきれない荷物を背負っているのに、見て見ぬふりしかできぬとは。わたしは、従者としてどうすればいい。体が大きくなったとしてもきっと楽にはならないこの重さを、これからどうしていけばいい。近頃は、こんなことまで考えるのだ。一体、どんな大人になれるのだろう? あなたも、そしてわたしも。ふらふら飛んでいってしまうだなんて言わないようになれるのだろうか。知らないふりが一番だなんて、言わなくて済むようになれるのだろうか。ぱっぱっとニコルは不揃いの草を上下させる。そして、ひょうきんな顔をして、こんなことを言う。
「飛べやしないよ。ぼくの飛ぶのは、君の思ってる飛ぶのとは違う。ただただ、あれよと言う間に流されるだけさ。好きなとこへは飛んでゆけない」
 サボネアさんよ、とニコルは続けた。
「このヒトに教えてあげるといい。例えば翼があったって、君も、空は飛べないよ」
「……なぜ?」
「鉛、と言ったろ、その左手。半身に鉛を抱えたままでは、どんな猛禽も飛べないのさ」
 また風が吹いたタイミングで、ニコルはめいいっぱい体を揺すった。ふわりと空に離れ、徐々に浮かび上がっていく『青い』綿草。どう返そうか、わたしは迷った。その間にもふわふわと、ニコルは群れの方へと泳いでいく。何を言われたのか知る由もなく、じゃあな、気をつけろよ、とトウヤは無邪気に手を振った。
「飛べる」
 だから。わたしはそう返した。大きい声を出すのは、わたしはもっと苦手だった。けどもニコルはにっと笑った。
「飛べるかい。鉛を負って」
「その分、強く羽ばたくならば。……わたしはそう思う」
「そうかいそうかい。――一緒に飛ぶ日が楽しみだ」





 大人になるって、こういう事か。
 いつからだろう。わたしの主は、空を飛びたいと言わなくなった。帰りたいとも、言わなくなった。体が辛いともあまり言わなくなった。慢性的に熱があったのがなくなったのか、慢性化しすぎてそれが当たり前になってしまったのか、わたしには知れない。多分彼だって答えられないだろう。でもひとつ言えるのは、流し込まれた鉛の重さは、実際的には、あの頃よりうんとましになっている。何故なら、どれだけ息を切らしてもただ駆け抜けるだけなら、全身の倦怠以上に左に違和感を抱えている事は、どう見てもなくなっていったからだ。
 怯えずとも、叔母と話せるようになった。背は随分と伸びた。わたしに対する無駄な口数は、これが随分と減った。けれども相変わらずなのは、歩きざまに鳥の鳴き声なんかを聞けば、あれは何々の声だな、と誰も必要としない解説を楽しげに加える事だとか。
 背が伸びたのは彼だけではない。わたしだって、そうだ。……早朝、窓枠の中の青みはじめた空を背景に、寝坊助になった主人をわたしは体育座りで見下ろしている。肩からずれかかった薄手の布団を、もう本日何度目だろうか、そうっと掛け直して。
 どどどっ、と何かが階段を駆け上る音が聞こえてくる。帰ってきたな。
「――お師匠様ぁ!」
 扉を蹴飛ばすくらいの勢いで駆け込んできた金髪碧眼の『居候』の声に、トウヤは何も言わずに、先程掛け直してやった布団を頭の先まで引き摺り上げた。
 ミソラはその枕元に飛び込んで遠慮もなくぐいぐいと肩を揺すった。その揺する片一方の掌には、あの、黄色と黒の安っぽい双眼鏡が握りしめられている。
「起きてくださいお師匠様! 約束したじゃないですか!」
「うう」
「早くしないと行っちゃいますよっ」
「……何が」
「『わたくさ』の群れ!」
 ぱっと目を開けると、トウヤはがばっと飛び起きた。
「今日だったか!」


 一旦しまわれたボールから次に開放された赤い屋根の上は、既に生ぬるいくらいには日差しに温められていた。待つまでもなくひょいと屋根の縁に掛けられた手は肌色のと赤黒いのと、わたしは近づくのはおろか少し距離を取って、勢いをつけて軽々と上がってきた主を迎えた。
 去年までなら、それで終わりだ。けれども今は足元から、困惑した空気が漂ってくる。
「ど、どうやってのぼったんですか、今」
「……危ないからお前はそこで見てなさい」
 低くそう言う主の背後で、わたしは出来うる限りの冷たい眼光を浴びせかける――少しまずそうな顔で主は振り向いた。わたしの言う事を聞くようになったのも、あの頃からの変化と言えよう。
 酷い運動音痴の子供をどうにかこうにか引っ張り上げて、息をついて見上げる頃には、綿草の群落は既に、あの日と変わらない様相で空を埋め尽くしていた。たくさんのハネッコ、時にポポッコ。群れの端にはワタッコがちらほらと見えて、大きな塊を誘導している。何も変わらない光景だ。毎年のように見られていたのが『死閃』があってからは来ていなかったから、もうルートを変えてしまったのかと思っていたが。……ああ、変えられないのか。風に身を任せるしかないのだから。
 汚れも気にせず屋根に寝転がりながら、これどうやって使うんでしょう、とミソラが目に当てながら弄っていた双眼鏡を、ひょいとトウヤは取り上げた。ちらりと覗き込んで、中心軸のリングをいくつか回して、黙って子供の掌に戻す。もう一度覗き込んだミソラが、おおっ、と嬉しそうに声を上げた。
「見えました! 凄い……」
「こんな暑い時期に群落が移動してるだなんて噂、絶対に嘘だと思ったのに」
 言いながら、主人はなんだか満足気だ。
 おーぉい、と間抜けな声が、どこからか響いてきた。そのあまりにも懐かしい聞き覚えに、まさかと思って顔を上げる。ああ、一体何年ぶりになる? 鳴き声が聞こえたのかそちらに目を向けたトウヤも、わたしの顔色を変えたのが分かったのだろうか、まさか、と言うような表情をした。それからもう一度そちらを見る。揃いの長さの両腕の、白い綿毛を振りかざしながら、近づいてくるその綿草は。
「……久しい顔だ。ニコル」
「やあ、お久しぶりだね、覚えていてくれてとても嬉しい。君はなかなか格好よく進化したじゃないか。やや、君も……」ワタッコになったニコルは、風を自在に操って、トウヤの前へとふわっと寄った。「進化したのかい、なんとまぁ。本当にあの無茶苦茶なヒト?」
 フッとわたしが鼻で笑うと、何を言われているのか分かってなどいないだろうに、トウヤもおかしそうに肩をすくめる。ミソラは寝転がったまま、双眼鏡を外してこちらをきょとんと眺めていた。
「ちゃんと成長できたんだな。……良かった」
「そりゃあそうさぁ。当たり前だよ。そんで、君はどうなんだい。飛べるようにはなったかい?」
 ニコルがぬっと顔をつめるので、何を言っているのかと問うように、トウヤはこちらに助けを求めた。
 さあ、これはどう返そう? あれが鉛でないことも、人間は普通は大人になっても飛べないことも、ニコルはもう知っているはずだ。悩んでいる間にも、そよ風に吹かれて、ふわふわとニコルは漂っていく。顔を上げた。本物の空と雲の色みたいになった旅草ニコルの姿は、朝日に濡れて、幾分眩しい。
「……残念だが、この人はまだ、長い『助走』の最中なんだよ」
「へえ、そりゃあ――とーってもいいね!」
 桃色の頃より、明るく抑揚のある声で。もっもっと腕を振ると綿毛がちらほらと舞って、乾いた早暁へと吸い込まれていった。







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