「虫歯ですね」
 トウヤの冷めた一言に、キン、とミソラの奥歯も痛んだ気がした。
 家の裏庭の隅の方、ちょっと過ぎるくらいの日差しの下でうつらうつらしているリナの背中を撫でながら、子供は神妙な面持ちで事の次第を見守っていた。一人と一匹ボールで遊んでいた昼下がり、さっきまで二階で小難しい本を読んでいたはずのトウヤが、見知らぬワニノコを小脇に抱えてずかずかと裏庭にやってきた。思わず隅っこに寄って小さくなったミソラには目もくれず、邪魔するなどとは別段声も掛けず、連れ立ってきた中年太りの男(確か商店街北の本屋か何かのおじさんだったような)を戸口のあたりに座らせて、自分も地べたに胡坐をかいて、あからさまに嫌がっているワニノコを足の上に寝かせた。それからその、水色の顎に手を掛けた。
 それが、おおよそ二十分くらい前の出来事である。
「む、虫歯ァ? ポケモンが?」
「なりますよ虫歯くらい、ポケモンだって」
「いやぁ、だけど……え、ポケモンだよ?」
「ポケモンを何だと思ってるんですか、確かに人よりなりにくくはありますけど」
 そもそも肉食の生き物って言うのは唾液のpH(ペーハー)が、と師匠がよく分からない話をしかけて、あぁまぁいいやそうなんだなと男に続きを制される間に、くわぁとリナがあくびをする。その一瞬開いた口の中を、ミソラは慌てて覗き込んでみた。
「でも普通の状態なら殆んど虫歯になんかなりませんけど……甘いもの頻繁に与えてるんじゃないですか」
「あぁ、こいつ、飴が大好物でね、やればやるだけ喜ぶんだよな」
 ばく、と上顎を閉じてむにゃむにゃと口を動かす手前、ちらりと見えた友人のあまりにも凶暴げに反り立つ牙に、ミソラは若干姿勢を引く。
「やるだけ喜ぶからってやりすぎはだめですよ、ちゃんと制御してあげないと。自分じゃコントロールしないんですから」
「飴を咥えながら寝てる時もあってな」
「そんなの虫歯にならない方がおかしいでしょ?」
「おぉ、確かに! じゃあやっぱり虫歯か。さすがはポケモンのお医者様だな、わっはっは」
「『ゴッコ遊び』でも虫歯くらいは分かります」
 しかし噂には聞いてたがポケモンの事になると別人みたいに喋るな、とやんわり囃されて、トウヤは若干むすっとした。笑っているのがばれないように口元を手で隠したミソラの見ている前で、ワニノコのかぱっと開いた口の中へと手を突っ込み、棒切れのようなもの(それをつっかえさせて口を開けさせていたらしい)を素早く引っこ抜く。へな、と顎を閉じて放心したようなワニノコを、中年男はひとまずボールの中に戻した。
「まぁ、歯医者にでも診せたらどうですか。痛がって物が食えないのは可哀想だ」
「なんだ、処置してくれるんじゃないの?」
「できる訳ないでしょ、ただのトレーナーですよ僕は」
「うーん、歯医者がワニノコなんぞ診てくれるもんかね」
 トウヤは一拍置いて、ゆらりと男へ顔を上げる。
「……噛み癖はともかく、むやみに技を使う癖をどうにかしない限りは門前払いかと思いますが」
 低い声でそう言う――雲一つない晴天なのに何故か滝にでも打たれたかのような様相をしている彼に、「それは難しいなァ」と男は満面の苦笑いで返した。


「――どうにしろ、ワニノコの歯っていうのは頻繁に生え変わるらしいですから」
「放っておけばいいってことか? ちょっと抜いてくれないかな、抜くくらいは素人でもできるだろ」
「噛まれたくないので僕は嫌です」
「俺だって嫌だよォ」
 客のいない酒場の店内まで戻ってきた男は、ホレお代だ、と言ってカウンターの上に何か薄い物を裏返しに置き、どこか白々しい動きでそれをトウヤの方へ滑らせる。
 何気なく摘み上げ、ひょいと表に返して、トウヤはさぁっと顔色を変えた。リナを屋内へ追いやり、戸口を閉めながら、ミソラは向こうの方で行われたそのやり取りを垣間見、首を伸ばす。
「なんですか、それ」
「ん? あーこれは」
 もがっ、と口を塞がれて、本屋の主人はトウヤによって店の出入り口の方へとぐいぐい押しやられた。ちょっと唖然として一部始終を見守りつつ、今しがた店のテーブルの上に師匠が問題のブツを叩きつけ残していったことを、ミソラはちゃっかり確認する。お構いなしにテトテトとお店の方へ歩いていくリナを追って、抜き足、差し足、とミソラもそれに接近を試みた。
 水鉄砲約四十連射を受けて全身ずぶ濡れの痣の男は、相手を壁際まで強引に寄せると、昂って震える声を潜めた。
「どういうつもりでこんなものをお代に下さるのかお尋ねしたい」
「あら、お気に召さなかったか?」
「そうじゃなくて」
「いやねー実はこの件で兄ちゃんを紹介してくれた人に言われたんだよ、あいつは現金よりそういうものの方が喜ぶからって」
「グ、グレンの奴……」ひっそり拳を握るトウヤの横で、本屋は急にテンションを上げる。
「けどこれは相当のレア物だよ兄ちゃん! 四年前の月刊ポケモンワークスのランダム封入特典で、しかも今を時めく美人敏腕ブリーダー『チガサキ リイナ』! リイナだよ、あの地に立つ妖精フェアリー・リイナの生写真とくれば――」
「分かりましたありがたく頂きますので早急にお引き取り下さい」
 ワニノコお大事に、そう早口に告げながら男は客人を押し出し勢いよく戸を閉めた。
 呼び鈴の音がガランガランと鳴り響いて、次第に収まるまで、ご機嫌そうに人並みに紛れていく男をトウヤは不機嫌な顔で睨み続ける。その背後で、問題のテーブルの目前まで忍び寄ったミソラが、息を殺しつつ、ゆっくりゆっくりと手を伸ばした。
 指先が触れかけ、最後の音が鳴りやんで、小さなため息が聞こえた瞬間に、店のカウンター席に腰かけていた図体のでかいビーダルが、ぶむぅ、と妙な寝息を立てた。その拍子にトウヤは振り返った。
 そして、そこに件の写真を今にも表に返そうとする子供の姿を見つけたのである。
「あ……あの、これ見てもい」
 ――光速で戻ってきた師匠は殆んど弟子の手中のものを、スパーン! と効果音をつけたくなるくらいの勢いを持って取り上げた。
「……い、ですか」
「――十年早いッ!」
 青ざめているのかはたまた赤らんでいるのかといった微妙な顔色で、且つ出会ってから五本の指には入るくらいのよく張った声でそう怒鳴られて、ミソラの好奇心は完全に怯えモードに切り替わった。





「――って言うことがあったんだけど」
「へー」
「なんだったんだろう……ダメって言われると余計気になっちゃうよ。チなんとかって誰だろう、知ってる? 生写真のナマって何?」
「あーそうだなー」
「十年早い、ってどういうこと?」
「なるほどなー」
「……タケヒロ」
 あん? と言ってようやく顔を上げたタケヒロは、ミソラが長い話をしている間からずっとポッポの首筋の毛をくりくりと捩って遊んでいる。
「ねぇ、聞いてた?」
「ん、いや悪い。全然」
「もー」
「だってあいつの話なんかまともに聞いてるとさ、こうアレが走るんだよ俺、なんだっけ、む、ムシ……虫……、ってやつが」
 むしず? と呆れてミソラが問い、ああそうそうそれそれ、とタケヒロは陽気に手を打った。
 ワニノコ騒動の日の午後、ミソラはいつものようにタケヒロと落ちあって、いつもの路地裏、いつもの高い青空の下で、こうして会話にもなりきらない呑気な会話を繰り広げている。
「せっかく話してるのに」
「話したいだけ話せばいいぜ。ミソラがあいつの話をしているとき、俺はさ、耳に蓋をしているワケ。心の耳に」
 そう、心の耳にな、とタケヒロはちょっと自分に酔った表情で繰り返した。そんなことどうでもよさげにミソラは大きくため息をついて、自分の右側にとまっているもう一羽のポッポの小さな頭を撫ではじめる。共同生活をしているだけありミソラが誰かに話したいことはだいたいお師匠様絡みだったりするのだけど、数少ない話し相手であるタケヒロはその人のことを名前も呼びたがらないほど嫌っているので、いつもまともに取り合ってくれないのである。
「ところでミソラさ、ポッポのオスメスってどうやって見分けるか知ってんの?」
「ううん。帰って図鑑見たら書いてあるかもしれないけど……どうやって見分けるの?」
「それがさ、俺も謎だったんだよね」
 えっ、とミソラは右手のポッポを見下ろした。これがオスなのかメスなのか、親のタケヒロも知らないというのか。
「ツーはオスっぽくて、イズはメスっぽいと思うんだけどな?」
「はっきりは分からないんだ」
「まあな。ま、どっちだったとしても接し方とか変わらないけどな、正直」
「……オスとメスの違いかぁ……」
 ミソラはそう言ったきり黙り込んでしまった。……オスとメスの、違い。言われて思い当たった点について、ツーの体毛をいじりながらタケヒロは何だか悶々とする。隣のミソラもイズの毛並をわしゃわしゃと撫でてはいたが、その視線はその先の地面の、その向こうの地殻の方へと遠く虚ろに伸びていた。
「……オスとメスの、なぁ……」
「……ねぇタケヒロ」
「うん?」
「僕、お医者さんごっこがしたい」
 アンニュイな調子で零されたその台詞を、そうだな、といつものように流そうとしたばかりに、タケヒロはその意味を理解するまで相当の間を要してしまった。
「……。……お、おい、お……お、おおお、おお医イィッ!?」









「お、おおおお医者さんごっこって、お前、急だな、お前」
「だってお師匠様がしてたんだもん、『お医者さんごっこ』」
「は、はぁぁぁっ!?」
 僕もやりたい、と口を尖らせるミソラの隣で、腰かけていたドラム缶からタケヒロは驚きのあまり飛び上がった。
「誰とだよ!」
「だからさっき話してた……」
「レンジャーの姉ちゃんか!?」
「えっなんで?」
 だってお医者さんごっこって言ったらあれだろ、ホラ、……ホラ! と両手をばたばた動かしながらも言葉ではちっとも形容できないタケヒロの脳内では、先程の『オスとメスの違い』の悶々がまだ尾を引きずっているのである。ミソラは不思議そうに(幾らか鬱陶しそうでもある)首を傾げた。
「タケヒロ、さっきの話ほんっとに全然聞いてなかったんだね」
「も、もう一回話して」
「やーだー」
「やー聞きたい聞きたい聞きたい!」
 そうして足までばたばたし始めたタケヒロに対して、つーんとミソラはそっぽを向いた。それから、何か思いついたようにはっとして、それからぱっと顔を輝かせる。
「話すって言ったら、一緒にお医者さんごっこしてくれる?」
「オッケイひと肌脱ごうじゃないか!」
「よし、じゃ横になって!」
 えっ俺なの、まぁ脱ぐって言ったけどさでもちげーよちょっと待てよと騒いでいる間にミソラの手によって地面の上に押し倒されたタケヒロは、思わぬ恰好で頭上に広がる雄大な空の青さを知った。ドラム缶の上のポッポ達が半目で主を見下ろす中、少年の視界のその美しい蒼穹の色に、金髪の子供のきらきらした空色の瞳がかぶさってくる。期待に満ち溢れた友人の顔を見て、タケヒロはなんとなく後には退けないと勘付いた。ぴっと直立の体制になったうぶな少年の横に座って、今日一番の晴れやかな、満面の楽しげな笑顔を浮かべて、さぁ、とミソラは掌を合わせる。
「では、お口を開けてー」
「……は? 口?」
「うん」
 訳も分からず、タケヒロは口を開けた。その開いた口内を、ミソラは目を真ん丸にして覗き込んだ。
「……」
「……」
「……え? なにこれ?」
「もー喋らないでよ」
 あっわりぃ、と呟いてタケヒロはもう一度あーっと開口。ミソラはやはりその中を――主に、彼の浅黒い肌色によく映える白い歯の並びを、穴が開くほど観察した。
 じりじりと降り注ぐ日差しの中で、三分ほど二人はそのまま無言の時を過ごした。
 ……顎にやんわりと疲労を感じながら、ぼんやりふやけた思考回路で、あぁ、とタケヒロはようやく思い至った――お医者さんごっこっつうか、歯医者さんごっこか。なるほどな。
「うーん……」
「面白いか?」
「あーだから喋らないでってば」
「もう充分だろ」
 そう言ってタケヒロは起き上がり、くうっと伸びを一つ。気が付けばツーは小首を傾げて暇そうに目を閉じており、イズなんか首を埋めて完全に眠る体制に入っている。まだ見つかってないよーと不満げなミソラを横目に、タケヒロは二羽をボールの中へと収納した。
「俺の口の中で何を見つけるんだよ?」
「虫歯」
「んなもんあるわけねー」
 そう言ってもミソラはなんだか不服な様子で、むすっとして動かない。さっき約束した話はこの調子だと聞かせてくれそうもないが、お医者さんごっこではなく歯医者さんごっこの話であったと理解した今、中心人物が「あいつ」でなくたって別段興味も起こらなかった。
「虫歯ですね、って言いたいの、お医者様みたいに」
「一人で言っとけ」
「タケヒロ冷たぁい」
 駄々をこねられてもないものはないのであるから、仕方ない。なんか別の遊びしようぜ、と提案しても、けれどミソラはぷーっと頬を膨らませるばかりである。
「もう一回、もう一回」
「虫歯なんか見てもなんもおもしろくねーよ、見たことないけど」
「お医者様の言う事聞かないと、治るものも治らないよ!」
 治すもんなんかないって、と面倒そうに声を上げたタケヒロの頭へ、その時、ゆらり、と影が降りかかった。
「……あの」
 聞きなれない、大人しげな澄んだ声。二人が振り返ると、そこには、桃と緑の小さなポケモンを腕に抱えた、二人より若干年上に見える少女が立ち尽くしていた。
 ミソラは首を傾げ、ココウの捨て子の間では到底お目にかかれない清楚なその顔立ちにタケヒロの頬は若干紅潮。な、何か? としどろもどろに返すタケヒロよりも、その向こうの金髪の子供の双眸を見つめて、あの、あの、と少女は繰り返した。
「お、お医者様なのですか……?」
 妖精の縦笛みたいな美しくも消え入りそうな音色は、そんなふうにその唇から紡がれた。
 気だるげな午後色の風が狭い路地上をそろそろと流れた。暫く意味が分からずミソラとタケヒロは閉口して、それから不意に目を合わせ、もう一度その子に視線をやる。それから二人同時に口を開き、
「な訳ねーじゃん」「そうです!」
 自信満々なミソラの頭に、アホか、とタケヒロはげんこつを入れた。





 この子なんですけど、と見せられた腕の中のポケモンを、二人はまじまじと覗き込む。
 女の子に抱かれ、つぶらな瞳でこちらを見上げているのは、実に形容し難い姿をしたポケモンであった。まず、『本体』と思しき顔(と、申し訳程度の足様の突起)のついた濃ピンクの球体、その後頭部から上に伸び、二股に分かれた緑の『ヘタ』、ヘタの片割れにぶら下がるのが、先の球体より幾分こぢんまりしたもう一つの『顔』らしき球体。つまり二つの大小の顔が、ヘタで繋がれて隣り合っている、という、例えるなら何らかの木の実のようなポケモンなのであるが、見たところ医者にかからなければならないような元気を無くした様子はない。
「チェリンボと言うポケモンです。この辺にはあまりいないのかな」
「ん? ってことはお前、ココウの人間じゃねぇのか?」
「ええ。父の仕事の関係で各地を転々と。今はこちらに滞在しております」
 彼女の名前をサクラ、チェリンボの名前をプラナスと言うらしい。タケヒロより一つ年上で、所謂宝石商のご令嬢なんだそうだ。それが何故こんなところをほっつき歩いているのかはよく分からないが、とにかくその身の上を聞いただけでタケヒロは俄然調子が良くなり、ミソラはそんな友人へかなり呆れた視線を向けた。
「んで、医者を探してるって? サクラちゃん、なんか困ってるの?」
「はい、ご覧の通りで……」
 そう言ってサクラは憂いの表情でプラナスを撫でるが、撫でられている方はきょとんとして主を見返すばかりである。
「……見たところ、特に体調が悪いとかではなさそうだけど?」
「いえ、あの。プラナスの、こちらの『顔』が……」
 女の子らしい細長い指は、チェリンボの『二つ目の頭』の方へと伸びた。
「ここ一週間くらいで、急にしぼんでしまったのです」
「しぼんだぁ?」
「ええ」
「なんで? そんなことってあんの?」
「それが分からないので、こうして困っているのですが……」
 まぁそうだよなぁ、と頷き、腕を組んで、タケヒロは改めてチェリンボを観察する。言われてみれば確かに、小さい方の球は、はりつやのある大きい方と比べて、『年老いた』みたいに皺が寄っている、ような気がしなくもない。
 熟れた果実の甘い香りが、そのポケモンから漂っている。サクラが目を伏せると、長い睫の影が滑らかな頬に落ちた。
「お医者様にかかろうと思ったのですが、こちらの町にはポケモンのお医者様がいらっしゃらないと伺いまして」
 先刻のことを思い出す。ちょっとポケモンに詳しいだけのずぶの素人に人が頼ってくるのだから、多分専門の医者なんていないのだろう。そうだね、とミソラが頷くと、まあなとタケヒロも同意した。
「父は放っておいても大丈夫と言うのですが、いてもたってもいられず、一人宿を出て、ポケモンの病気にお詳しい方を探していたのです。お二人もポケモンを飼ってらっしゃるようですが、ポケモンが病気をした時、どうなさっているのですか?」
「俺のポッポは病気になんてなったことないからなぁ」
「僕は初心者トレーナーなので……」
「……そうですか」
 サクラはしゅんとして俯き、それを案ずるようにおろおろとプラナスは視線を上げる。どっちが病人なのか分からない始末だ。うーんとミソラも難しい顔をして、プラナスの小さい方を凝視した。皺の寄った……しぼんだ……。痩せ、た……?
「……あ、分かった!」
 突然上がったミソラの声に、サクラのみならずタケヒロも、事の解決にちょっとだけ期待した。
「――虫歯だ!」
「まだ言ってんのかよ」
「む、虫歯……?」
 タケヒロは期待した俺が馬鹿だったとでも言わんばかりに即答し、プラナスはぱちぱちと瞬きを繰り返した。真に受けてぽかんとした人のいいサクラへと、ミソラは嬉しそうに拳を揺らしながら力説する。
「虫歯だよ、プラナスに甘いものあげすぎてるんじゃない? 歯が痛くてご飯が食べられないから、そうやって片方だけ痩せちゃったのかも」
「いえ、ポケモンフードは普段通りに食べるのですが」
「ちょっとお口診せて下さいね、はい、あーん」
「だから、あの……」
「おいやめろサクラちゃん困ってんだろ!」
 ボカンと本日二度目のげんこつが決まって、もうっ痛いじゃん! とミソラは怒って振り向いた。そこで言い合いが始まって、なぜかそのまま喧嘩に発展していく二人の脇で、サクラは悲しそうな顔で視線を落とす。言われたとおりに口を開いていたプラナスも開け損、ぱくっと口を閉ざしてしまった。
 地面に落ちた主に三つの濃い影の中で、二つ分だけがせかせかと激しく揺れ動いている。サクラはじっとりとそれへ目を向けていて、その目の色彩がふるふると震えだすまでに、それほど時間は要さなかった。
「お前はいつもそうやって自己中に――!」
「良いカッコばっかりしてさぁタケヒロって――」
「……もし、このまま……」
 サクラの小さな声を聞き取って二人は掴み合っていた手を離し、そちらへ顔を戻してぎょっとする――サクラの悲しげな瞳からついに、ひとつ、ふたつ、と、涙が零れ始めたのだ。
「このまま、プラナスが死んでしまうようなことがあったら……お父様はお仕事が忙しいし、ひとところに留まらないからお友達だって全然……私、私……」
そうしてさめざめと泣き始めたサクラの前で、二人はしどろもどろとなるばかり。ちーちーと慰めるようなプラナスの鳴き声を聞き、サクラの嗚咽は更に留まるところを無くしていく。だだ大丈夫だよ何とかなるって! と無責任な励ましをタケヒロが慌てて浴びせている間に、ミソラははっと閃いた。そして自宅の方へと駆け出した。
「僕、お師匠様に聞いてくる!」
「は!? えっ、あっ、……お、おう頼んだ!」





 濡れて、乾いてぱさぱさの髪の毛を掻きながら、トウヤは自室の机の前へと座り込んだ。
 日もまだ高い時間であるが、カーテンはあらかじめ閉めてある。落ち着きなくきょろきょろと辺りを見回して、男はコホンと一つ咳払いした。それは勿論、気持ちを落ち着かせる意味で。それでも尚、自ずと頬を緩めてしまう自分の事は自分でも気味が悪くて、思わず左手で口元を覆って、けれどもはやる気持ちは全く抑えることができないままトウヤは右手を机の上の、裏返っている例の写真へと手を伸ばした。
 ぺらり、と表へ返すと、トウヤはまず、右手を伸ばしてそれを出来るだけ遠い位置から観察した――そこに映っているのは本屋の主人の言った通りの『チガサキ リイナ』、若干十四歳であった頃のチガサキリイナその人であって、その人が水着の大胆なポーズで、自身のポケモンと一緒に微笑んでいる写真であって。
 ……目を細めつつ、一人で平常を装いながらトウヤは写真を近くへと戻した。机のあっち側に投げている三つのボールから何やら視線を感じもしたが、それだってもうどうだっていい。ちょっと舌なめずりさえして、男は睨むようにその細部に渡る観察を開始する。
 どこからか小鳥の平和なさえずりが聞こえる中、初夏の日差しの注がない室内で、暫し不気味な静寂が流れた。
 巷では今やフェアリーと称される美人天才ブリーダー、リイナ。四年も昔のその体躯には、未成熟なりの危うさを兼ねた、悩ましいまでの魅力がある。例えばその、白ビキニに包まれた腰から誘惑するようにこちらに伸びる、華奢で、しなやかで、また肌触りの良さそうな彼女の生脚――その足の間に挟まっているのは、良く晴れた日の綿雲を想起させるような、真っ白なチルタリスの翼である。
 ごくり、とトウヤは生唾を――人間様の脚線美などではなく、チルタリスの翼の吸い込まれるような美しさを目の前にして――呑んだ。
 リイナが甘い、且つ挑発的な視線をカメラに向け――ながら跨っているのは、一体のハミングポケモン、その手で育て上げられたチルタリス。リイナのその、類い稀なる陶器の如き美脚――の向こうに見えるのは、聖母を思わせる包み込まれるような温かさと、同時に天空を思わせる凛とした清純な輝きを湛えている、眩しさのあまり目を背けたくなるほどの純白の翼。リイナがその、類い稀なる豊満な胸――を見せつけるように乗せているのは、洗練された滑らかな円形を描くチルタリスの額、その直下にこちらを見守るような慈愛をもって微笑むチルタリスの両目、つるんと愛らしい丸みを帯びたくちばし、優雅な流れを描く首筋。それらのベースとなるのは、思い出の中で一番優しい明け方の空みたいな穏やかな、穏やかな色の青。一瞬の隙もなく、ぶれもなく生え揃った、この上はないと言い切れる毛並の艶やかさ。そしてこの、写真の奥に見え隠れする尾羽の、また何と上品で優美なことよ――――
 ……このブリーディング十四歳のなせる業とはとても思えないな、と、十四歳とはとても思えない魅惑的なプロポーションの少女(の存在はもはや彼には背景程度にしか見えていないが)が映り込んでいる写真を見ながら、トウヤはぼそりと呟いた。そしてもう一度食い入るように、そのチルタリスを観察する。主がよそのポケモンに対してあんまり鼻の下を伸ばしている姿をボールの中の三匹は突き刺すような視線で眺めていたのだが、当の本人にそんなことに気付く余裕は全くない。
 軽く十分はそうしていたが、ついにトウヤはそれを机の上に表向きのまま戻して、満足そうに伸びをした。それから、どこにしまっておくかな、と楽しそうにひとりごちながら立ち上がった。
 今やミソラとの共有スペースであるトウヤの自室、その窓際の棚の上段は、集めた写真専用の置き場と化している。右側には自分のポケモンたちを映した写真が乱雑に飾られているのだがそれはまぁ良いとして、左側の大量のアルバムを一冊ずつ抜いて、どこにファイリングしようか、とぺらぺらページを捲っている間に、ついつい別のブロマイドに見とれたり、今度はそんな取り留めのない時間をトウヤは暫く過ごしていた。

 そんな時間を楽しみすぎて――途中でミソラが室内に戻ってきていたことに、トウヤはなかなか気付かない。

 こちらに背中を向けて棚を漁っている師匠を横目に、ミソラは、机の上に置かれた殆ど生まれたままの姿の女性が笑っている写真へと視線を落としていた。まだあどけなさの残る顔立ちの、レンジャーよりもっと年下と思われる女の子が、有り余るほどの大きな胸とほっそりした腰を強調するようなポージングでポケモンと一緒に映っている。十年早い、の意味合いをミソラはなんとなく理解して(それはトウヤが言った意味とは若干異なるものではあったが)、なんだかいたたまれない気持ちになった。このままそっと気付かれぬうちに部屋を後にしてしまった方が、彼の自尊心を傷つけずに済むかもしれない。けれどそれでは、プラナスが……ミソラが変に気を使っている間に、ミソラの背後に、階下の酒場から上がってきたビーダルのヴェルがやって来、佇んでいた。それが、ぶむぅ、とまた妙な鳴き声を立てた。その拍子にトウヤは振り返った。
 そして、そこに件の写真をじっと凝視する子供の姿を見つけたのである。
 ……体を強張らせてもミソラは声をかけなかったし、トウヤも今度は飛び付いてはこなかった。ただ、そっと視線を滑らせて、その写真が表側を上にして置いてあることを確認した。
 トウヤは静かに――何か色々なことを諦めたような寂しい顔で、弟子に向かって微笑んだ。それから、散らかしていたアルバムの類をひとつずつ元に戻し始める。
「……おかえり。ミソラ」
 極めて小さな声で思い出したようにそう言うと、男は子供に背を向けて、そのままそこに横になってしまった。
 結局ミソラはえも言われぬ申し訳なさに襲われて、部屋の奥まで立ち入る気分にもなれなくなってしまった。無表情に部屋の内部を窺うと、ヴェルは何事もなかったかのように踵を返して、階下へと戻っていく。長い、長いため息が、昼間なのに薄暗い室内に零れて、消えた。やはり席を外そう――とミソラも背を向けかけたが、一瞬頭から離れていたことが駆け足で中心に帰ってきて、あっ、と思わず声を上げる。
「プラナス!」
 魔法の言葉か何かのように突然そう言って、部屋に飛び込み例の棚の横の背の高い本棚を物色しはじめたミソラへ、トウヤは何も反応を示さなかった。ただその隙に、床へへばりついた状況からぬるりと起き上がり、放置していた例の写真を引き寄せて、それを手にもう一度寝転がる。そして目の前に写真をかざし、なんとなくネジの抜け落ちたような表情でやっぱり頬を緩める師匠の傍で、ミソラはばたんばたんとジャンプしながら高い位置の本へ狙いを定めていた。背表紙に書かれたタイトルは、『新編 植物病理学――薬用木の実の病害と対策』。
「プラナスが……!」
「……プラナス?」
「はい、あの、サクラさんのプラナスで……ふたつのうちの片方がしぼんで、もう片方は元気なんですけど、このままじゃもしかしたら……!」
 切迫したミソラの声に、緩んでいたトウヤの顔も、少しだけ真顔に近づいて――プラナス、ふたつの、とそれだけ呟いて、もう一度だるそうに起き上がった。それから、相変わらず飛び跳ねているミソラの足元まで寄ると、腕を伸ばして、中段くらいに入れてあった厚手の本を引き出した。
「こっちだ」
「え?」
 ふと我に返ったように跳ねるのをやめて、押し付けられるがままにミソラはその本を受け取った。
 トウヤはそれ以上何も言わず、また先程と同じ位置にごろりと寝そべって、件の写真を飽きもせず眺めはじめた。ミソラはぽかんとして見届けて、それから手の中の本に目を落とし。表紙に並んだその文字を、首を傾げながら口にした。
「……進化……?」





 ついに地面に崩れ落ちてわんわんと泣き喚くに至ってしまったサクラを、タケヒロもどうなだめていいものか頭を悩ませていた。
「プラナス――私のプラナス――」
「お、落ち着けって! 大きい方は普通に元気そうだし、すぐ死んじゃうってことはさすがにないだろうし」
「プラナス――ッ!」
「泣いてるばっかじゃ何も解決しないだろ? ほら、そういう時は……聞くんだよプラナスの声を! 心の耳で……!」
 そう、心の耳でな! と言い切った後に、なぁなんで片方しぼんでんだよ、メシ独り占めしてんじゃねーだろうな? とタケヒロはプラナスに話しかける。プラナスは困った顔でその少年を見返した。その時――
「違うよ!」
 飛んできた声に、二人と一匹ははっとそちらへ顔を向ける。
 ――日も暮れかけて、涼しげな風が火照る空気を冷まし始めた初夏の路地裏。その真ん中に仁王立ちしているのは、斜陽に輝く長い金髪に、美しい空色の瞳を持つミソラ少年であった。両手で分厚い本を抱えながら自信満々の表情で、ずんずんとこちらに近づいてくる。なんか分かったのかよ、と問うと、ミソラはすぐに頷いた。
「これ、見て」
 そう言って本のとあるページを開くと、ミソラは二人にそれを差し出した。タケヒロはそれを難しい顔で覗き込み、サクラは立ち上がって、ちょっと遠巻きにそのページを眺める――そして、はっ、と口を塞いだ。
「そうなのですね……!」
 感嘆の声を漏らすサクラに、ミソラはやや自慢げに頷き、タケヒロ――赤ん坊の時に町に捨てられたため教育らしいことを受けておらず、文字の読み書きは殆んどできない少年は、依然難しい顔で小首を傾げる。
 その学術書の題名は、『草タイプの進化・4』。依然として謎の多い『ポケモンの進化』へと焦点を絞った、各種族ごとの生態解説書である。ミソラが開いて示したのはもちろん『チェリンボ』の進化に関するページであって、いくつかのチェリンボと、その進化後の姿の写真の脇に書き添えられた解説が、『片方の球がしぼむ謎』を解決へと導いていた。
 『チェリンボの小さな球に詰まっているのは進化に要するエネルギー=栄養分であり、個体の成熟、即ちチェリムへの進化段階が迫るにつれて、エネルギーを吸われた小さい球はだんだんと萎んでいく』
「……えっと、ていうことは……つまり?」
 一度の説明ではいまいち理解できなかった様子のタケヒロの前で、ばたんとミソラは本を閉じた。
「プラナスは進化が近づいているっていうこと。病気なんかじゃなくて、むしろ健康に育っている証拠だったんだよ」
「凄いわ、プラナス……!」
 ついさっきまでとは一転、今度は歓喜の声を上げて、サクラはプラナスを抱きしめる。ほっとした表情で抱かれているプラナスを見、ミソラとタケヒロも顔を見合わせて安堵した。これで一件落着だ――そろそろ帰らなきゃならない時間だな、とミソラが空を仰いだ瞬間に、チェリンボを抱きしめていた人が、先刻と比べると嘘みたいな無邪気な笑顔を浮かべて表を上げた。
「お二人のおかげです、本当にありがとう! 是非お礼をさせてください……!」





 ……それで、今掌に収まっている赤い宝石をどうするか、ミソラは長らく決めあぐねていた。
 宝石商の娘だからと言って、素人目には分からないくらいの濁りの入って売り物にならないものだからと言って、何もこんな右も左もわからない子供へのお礼に宝石を渡すことはない。大人に言ったらびっくりしちゃうから秘密よ、なんてウインクされちゃった日にはミソラはおばさんにもお師匠様にもこれを始末してもらうことができなくなって、晩ご飯の間はポケットの中に忍ばせて、お風呂に入っているときなんか手にしっかり握って湯船に浸かったくらいなのだ。けれどもこんな高価なもの、とにかく物騒だし、持ち歩いてたって良いことはない。仕方ない、面倒なことになる前にやっぱりお師匠様に相談しようっと。ミソラがそう決断したのは、その当日の夜中のことであった。
 歯磨きをして二階に上がると、しかし厄介なことに、部屋にはビールの空瓶が二、三本転がっているような事態になっていた。ドアをくぐれず立ち止まった目下には、……色とりどりの知らないポケモンたちが映った大量の写真が、所狭しと、そして整然と並べられている。
 それはかなり異様な光景で、ミソラはちょっと恐怖さえ感じた。テーブルを起こして端に寄せてある部屋の真ん中には、足の指先まで見事に真っ赤にしている上機嫌な酔っ払いがいて、始終よく分からない鼻歌を奏でながら、笑っちゃうほど覚束ない手つきで写真を一枚一枚並べていく。弱いくせに極端な飲み方をしてこんな風にぶっ壊れているトウヤをミソラは何度か見たことがあったが、二階の自室で一人で飲んでるなんていうのは、春以来初めて見る光景であった。
「……大丈夫ですか」
「んー? ……あぁごめん、踏まないように気を付けてくれ」
 会話は成立しなかったが、まぁいい。ミソラはそろそろとつま先立ちで侵入し、右手奥のベッドに上手く飛び乗って難を逃れた。ミソラが使っているベッドの隅っこには今、ノクタスのハリが、体育座りで主の事を見守っている。彼がそのうちにそこで潰れてしまったら、後片付けをするのは多分彼女の役割なのだろう。少しだけ憐れんでミソラはそのポケモンを一瞥するが、ハリの両目は、写真の向こうのポケモンを嬉しそうに愛でている主の姿を映して離れない。
 こんな時に相談してもどうせ無駄なので、例の宝石は、ひとまず自分の鞄の中にしまい込んでおくことにした。トウヤはくつくつと変な笑い声を立てながらしばらく、並べた写真をぐちゃぐちゃにしては、また丁寧に並べ直す、という動作を繰り返している。ミソラが入ってきてからの数分間でも、やっぱりドラゴンタイプはいいなぁ、という独り言が、少なくとも十回は聞き取れた。
 昼間の件で師匠の中の何かが崩れてしまったのではないかと思うと、やはりミソラの中に「なんだか申し訳ない」という気持ちも僅かではあるが湧き上がった。そのまま放っておくとだんだん動きが鈍くなってきて、何かむにゃむにゃと言いながら、トウヤはそこに倒れて、芋虫のように丸くなる。顔も耳朶まで茹蛸みたいになっていて、ミソラは遠慮もなく笑ってしまった。虚ろな瞳は一瞬床の底へと飛びかけたが、その笑い声に釣られるように、居候の姿へゆっくりとピントを合わせていく。
「ミソラ」
「はい」
「チェリンボは?」
 あの時のあれだけの言葉で何故種族名まで分かってしまうんだろう、ミソラにはそれが何だかおかしい。大丈夫でしたよ、とミソラが肩を揺らすと、トウヤは満足気な笑みを浮かべて、すぐに瞼を下ろしてしまった。
「お布団いいんですか」
「うぅ」
「……そういえば、お師匠様」
 ハリがちらりと子供へ目をやる。殆んど眠りに落ちかけているトウヤへと、ミソラはちょっとだけ身を乗り出した。
「なぜ、ココウにはポケモンのお医者様がいないんでしょうか」
 お医者様を目指すのもいいなって思ったんです、とは、ミソラは言わなかったが。
 その後しばらく返事がなくて、眠ってしまったのかとミソラは諦めかけた。けれども、ミソラが壁へと背中を預けた瞬間に、ふとトウヤは目を開けた。それから、ごろんと仰向けになって、徐に、大量の写真の中へと両手を広げた。
「医療の進歩と言う奴は――、」
 一瞬前までとは全く違うはっきりとした男の声に、ミソラはもう一度身を乗り出す。
「ヒトを弱体化させる」
 それだけ言うと、ククッと笑って、蛍光灯の明かりを遮るように両手で目元を覆ってしまった。彼の言った意味が分からなくて、ミソラは黙って待っていた。そちらへ視線をやっていたハリは、少しして顔を戻し、ふっと目を閉じる。
「つまり、自然状態なら死ぬはずの弱い個体が、医学の力で生きながらえてしまうんだ。本来自然の中には浄化作用があって、弱かったり病気だったりする遺伝子は、そこで途切れるようになっている。けれど、そういう機構を、医療がある程度せき止めてしまう。そうして不自然に生き残った生き物が、劣った遺伝子の生き物が子孫を残すと、同じように劣った遺伝子を持つ生き物が生まれる危険性が高くなる」
 滔々と、淀みなく講釈は続く。多様性と言うのは生物種の生存戦略においてとても重要なもので、病気や障害の遺伝子が劣っているとは本当は一概に言えないのだけれど、僕みたいな――そう言ってトウヤは自分の左手を、今は包帯は巻いていなくて、人のものではない色の皮膚を晒した左手を電光にかざして、黙り込んで、ひとりでにもう一度笑う。
「……それが良いのか悪いのか、僕は分からないけれど。少なくとも、ポケモンは人とは訳が違う。ポケモンって言うのは、強くて、便利で、従順でさえあればいい……この町には、そう思っている人がまだ大勢いる。医者にかからなきゃならないような弱い、無駄な金のかかるポケモンは、今も後にも必要ない、ってね」
 その話は子供には難しくて、少し眠気さえ誘われながら、ミソラは口を閉ざして聞いていた。
 そんな金髪の様子をじぃっと見つめて、トウヤは僅かに笑みを浮かべた。綺麗事言いたいんじゃない、僕だって似たように……、と零れる声は、だんだんと細くなり、ゆらゆらと微睡を漂い始める。ミソラはちらりとハリの方を見、それから、鞄――割とどうだっていい真紅の宝石と、大切な友人のしまわれているモンスターボールが入っている鞄を見た。それから、部屋の真ん中に転がっている人を興味深い目で見下ろした。
「お師匠様は、ポケモンのお医者様になろうと思われたことはありますか?」
「ない」
 即答。ミソラではなく、その隣の彼の従者から息を抜くような音が聞こえた。殆んど閉じかけていた男の瞼はほんの少しだけ持ち直して、ずるずると床の上を右手が這って、そこに散らかった写真のいくつかを摘み上げ、ぱっ、と宙を舞わせる。
「僕はな、ミソラ。こういうめちゃくちゃに金のかかったモデルみたいなポケモンを、眺めているのが好きなんだよ。命預かるようなのより、こういう役柄の方が、ずっと性に合ってる。知ってるだろ?」
 言っている事と言っている事がちぐはぐで、知りませんよ、とミソラが笑うと、トウヤも一瞬にやりとした。それから、ごろりと向こうへ転がると、すぐに寝息を立て始めた。


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