ココウの中央商店街を、少年が駆け抜けていた。
 年の頃は十歳程度か。渇いた質感の短い黒髪に小麦色の肌、どこか焦燥感を浮かべる焦げ茶の瞳は道行く誰とも大して違いのないなりだが、左の頬から首筋にかけて、袖の中を通って左の指先まで赤黒く変色しているさまは痛々しいというよりは薄気味悪く、異端といえば異端である。振り返るいくつかの視線をそれどころじゃないといった様子でかわしつつ、視界を半分塞ぐほど大きな紙袋を抱えてぱたぱたと行く少年は、ふいに足を止めて振り返った。雑踏の合間をぬって、頭上にかごバスケットを掲げたサボネアがひょこひょこやってくる。それを見て、少年はもう一度元の方へと走り出した。
 日はとっくの昔に天頂へと昇りつめ、若干西へ傾いているとも見える。
 買い物を頼まれたのは朝方の、まだ人気も多くない時間だった。紙袋の中に見え隠れするのは、旬も盛りの野菜の生彩。頼まれたそれらを買い込んだ直後から、隣の生花店に延々セールストークをなすりつけられ、あっという間にこんな時間になってしまった。……いや、生花店の名誉を保とうと思えば、勧められた蜂蜜にこれでもかというほど興味を揺さぶられたのは少年である。ミツハニーと呼ばれる蜂の子のなりのポケモンがいかにして女王蜂のために花の蜜を集めるのか、夜どんな形で眠り、朝何を目安に空を飛び、昼間花の在処を仲間に知らせる『ミツバチダンス』、夕刻にはどれほど果敢に外敵へと立ち向かうのか。そんな所々でたらめの混ざったポケモン談を、少年はいかにも年頃の男の子らしく瞳を輝かせて聞き入っていた。
 彼がこの町に移り住んでからそれほど日にちも経っていないが、そのポケモンへの異様なまでの執着は、見た目の異様さと同様に面白いように噂にされた。それはもちろん、恐ろしいほど簡単に釣れるかわいいガキだよ、という内容も暗に含まれていて――その珍しい蜜がここにあり、ミツハニーの唾液が含まれたこの蜜にはポケモンを引きつける成分が云々、今ならたったのこのお値段! とまことしやかに言い立てられれば、少年は慌てて小遣いと相談せざるを得なかったのである。
 連れのサボネアの微妙に冷たい視線を浴びながらも黄金色の小瓶をズボンのポケットへと突っ込み、意気揚々と歩き始めて数十秒。あっ、と声を上げたかと思うと、一人と一匹は顔を見合わせ、すぐさま石畳の通りを駆け出し、今に至るという訳であった。
 中央からやや南寄りの大通り沿いに、赤い屋根の大衆酒場がある。少年はそこに暮らしていた。
 がらんがらんと呼び鈴がせわしく鳴り響いて、少年は塞がった両手のかわりに背中で戸を押し開いた。
「おばさん、戻りました……」
 呼び鈴と対照的に控えめな声に、いくつかの視線が振り返る。昼下がりもいいところであるのに、店内には顔を赤らめた数人の客の姿があった。続いてカウンターの奥から恰幅の良い女が顔を覗かせた。彼女は酒場の女店主であり、また少年の叔母でもある。
「あぁおかえり、お使いありがとね。随分遅かったけれど」
「どうせまた客引きにしてやられてたんだろォ?」
 同じく両手の塞がったサボネアを店内に招き入れ、げらげらと下品な笑い声を立てる客の横をむすっとして通り抜け、自分の紙袋とサボネアのバスケットとをカウンターの上にとんとんと並べて。中身を確認した叔母がうん、と頷くのを見届けると、ふぅと息をついてその場にしゃがみこんだ。
 疲れた、とでも言いたげに瞬きするサボネアの頭を、人の色をした右手がくりくりと撫でまわす。
「ハリも、お疲れ様」
 サボネアはこくんと頷いた。
 女店主に空になったジョッキを高く示しながら、客の一人がご機嫌そうに笑い皺を浮かべる。その声は少年の背中へ向けられていた。
「坊主。スタジアムでがっぽり稼いでるからって、あれもこれも買ってたらすぐ破産しちまうぞ」
「がっぽりって、この子はそんなに強いのかい」
「強いのなんの! こーんなサボネア一匹で、常連の若造どもをばっさばっさとなぎ倒すとんでもねぇガキだって評判だぜ」
「なぁに、そんなに稼げるんだったら、少しくらい家賃として納めてくれてもいいんじゃない?」
 叔母の言葉は冗談めいていたが、それがサボネアを映す少年の瞳を僅かに曇らせた。
「坊主がこっちに来てから、もうふた月くらいにはなるんだっけか?」
 別の男が投げかける言葉に、そうだね、と叔母が頬を緩める。
 少年はぐりぐりサボネアを撫で続け、サボネアは瞬きを繰り返す。ココウ中心街の中央やや南寄り、叔母がひとりで切り盛りする赤い屋根の大衆酒場。少年は、『今は』、そこに暮らしていた。
 さして遠くない血縁とはいえ、元から叔母に面識があった訳でもない。突然転がり込んできたよその、それも客商売には到底向かない容姿の子供を、彼女は一言の文句も言わず――とまではさすがにいかなかったけれども、こうして養ってくれているのだ。実際には実の両親が養育費を収めてはいたのだけれど、まだ幼い少年にはそれが十分なものなのかどうかはよく分からないところであった。
 人見知りの気のある少年は叔母に対してまだ戸惑いもあるけれど、感謝の気持ちは日に日に強まってきていたし、何よりこのままでいいのかという思いはここ最近ずっと抱えているものだ。お使いを買って出たのも、できる限りで店の役に立ちたいという考えがあったから。それが、いとも簡単に生花店の誘惑の前に折れてしまって、少年はなんとも不甲斐ない気持ちに苛まれながらぎゅうとサボネアを抱きしめた。
 それを微笑ましく眺めた叔母は、急にぽんと手を打ち合わせた。
「さぁ、ポケモンもいいけどね、今日は手伝いをしてくれるって言ったんだからね。おばさん忘れないよ」


 カウンターの奥に続く通路を通り、二階の自室へ続く階段を素通りし、薄暗い脱衣所の横を抜け、裏の戸口を押し開けた先に、ぽっかり開いた空き地がある。
 四方建物に押し込められた小池のような日溜まりの中へと、少年はそろそろと踏み入った。背中側の戸口の向こうから、酔っ払いたちの大きな笑い声が遠ざかって聞こえる。物干し竿にひらひら揺れる洗濯物をかいくぐり、少年は一端そこで立ち止まった。
 そこに物悲しく腰かけているのは、古い小さな建屋だった。どれほど放置されていたのだろう、壁は雨と埃で黒く汚れ、瓦も所々が欠け落ちている。当然のように景色に溶け込んでそこにあるのに、板目の朽ちた穴の向こうには、得体のしれない薄暗さが渦巻いている。少年は静かに唾を呑む。それは少年がずっと、それもこの家に引き取られた日からずうっと心に掛けていた、でも何となく近づくことを憚られる建物だった。
 裏庭の蔵の掃除。それが頼まれた仕事だ。今度こそは上手くやってやるぞ、との頑なな決心と、幾ばくかの好奇心が混ざり合った妙な高揚感の中で、少年は引き戸の取っ手に手をかけた。
 がらりと思ったよりも勢いよく扉が開いて、瞬間むわっとカビの匂いが鼻をついた。しかしそんなことよりももっと重大な問題が、少年とばっちり目を合わせた。
 そこに、自分と同じくらいの体長の、大きな大きな蜘蛛がいた。
 少年は問答無用で戸を力いっぱい押し戻した。そしてすぐさま走りだした。裏の戸口を引いて脱衣所の横を抜け階段を素通りしカウンターへと飛び込んで叔母の背中にぶち当たると、
「おばさん蔵にアリアドスが」
 それだけ早口に伝えた。えぇっ、と言うのは振り向いた叔母の声で、
「嫌だよ追いだしといておくれ!」
「なんだなんだ、お前ポケモンはできるのに蜘蛛は怖いってか」
「べ、別に怖くなんか!」
 悲鳴のような叔母の叫びに、囃す客、安々と挑発に乗っかる少年。そうだ、あまりに突然のことで驚きはしたものの、よく考えれば相手はただのポケモンだ。昨日スタジアムでこてんぱんにしたフシデなんかとおんなじだ。怖いことなんてちっともないちっともない。
「ポケモンとなると手のつけられないやんちゃなんだから、そのくらいは大丈夫だろう? ねぇ聞いておくれよこの間なんかね、私が中庭に置いておいたバケツをこの子とハリがひっくり返してね、傍に置いといた洗濯物もびちょんこのどろんこでねぇもう本当に困ったもんだよ」
「だからあれは僕じゃ……」
「嘘おっしゃいな、あんた以外に誰がいるって言うんだい。まさかヴェルがいたずらするとでも言いたいのかい?」
「で、でもっ」
「おーおー、ハギさん怒らす間に、とっとと蜘蛛退治にいっちまいな」
 大人たちにいいように言われてむぅとふくれっ面をした少年は、こんなふうに気に入らないことを蒸し返される原因となったあの大きすぎる蜘蛛のことを思って――ふいに、何か確信を得たような切迫した表情をつくって、それからじわじわ怒りの染みだすような妙な顔色をして、トレーナーベルトから紅白のモンスターボールを手に取ると、足元できょとんとしているサボネアをその中にしゅんと収納してしまった。
 そしてずんずんとカウンターの奥の方へ向かったかと思うと、急に立ち止まって、ズボンのポケットから何か取り出しながら客席の方へと戻っていく。
「おぉ? なんだなんだ」
 客の声を完全に無視して、少年は店舗の奥へと向かう。手にする黄金色の液体は、先程売りつけられたミツハニーの蜂蜜であった。
 くるくるきゅぽっと瓶の蓋を開け、一寸の迷いもなく右の人差し指を中へずぶっと突っ込み、糸引くその先をぺろりと少し味見して、難しい顔で頷くと、そのままその指を、奥のベンチの隅っこで丸くなっている大きなポケモンの鼻先へとちろちろ近づけた。
 熊のようなそのポケモンが、匂いにつられてのろりと目を開ける。けだるそうにのっそりと起き上がったのは、子供一人くらい簡単に押しつぶせそうなほど体格のいいビーダルであった。
 目先で揺らされるてらてら光る小さな指へと、寝起きのビーダルは反射的に舌を伸ばした。ざらざらしたピンクの舌が指先へ触れた瞬間――ビーダルの目がばっちり開いた。少年はとっさに体を引いた。
 甘い匂いを撒き散らしながら、少年がカウンターへと飛び込んで裏口へと駆け抜ける。それをビーダルの巨体が似つかわしくないスピードでどしんどしんと追いかけていった。
 ……あまりに突然の出来事に、客の連中と女店主とが、揃って茫然と裏の通路を眺め続ける。
「いやぁ……賑やかでいいね、男の子がいると」
 若干酔いの醒めたような男性客の言葉に、女店主は少し肩を揺らして、嬉しそうに苦笑した。











 空はからっと晴れ渡っていたが、蔵の中にいる三吉にとっては何の関係もないことであった。そもそもこの時期この時間に空がすっきりしているなんて特に珍しい事態でもない。雲低く頭垂れる日和の方が、むしろ三吉には望ましい。腐った屋根が雨漏りするからだ。
 蔵暮らしの生活と言うのはもっぱら飲むのに困る。食べるのには、時折壁板の間隙から忍び込んでくるネズミやミネズミを仕留めればよい。それ一匹で十日は腹が持つ。けれど飲み水はそういう訳にはいかなくて、生き血だけでは足りない時に三吉はほとほと弱った。弱ると言って、だから特別何かをするのではなく、三吉はただただ乾いて待つのが常だった。心得ているのである。こういう場合、大概が『果報は寝て待て』で丸く収まってしまうのだ。
 例えばこんなことがあった。喉をかぴかぴにして死にかけている折、蔵の外にてごとりちゃぷりと音がした。隙間から片目を覗かせると、ひとつ手桶が立っている。そこから水の匂いがするではないか。これ幸いと三吉は足をわさわさ伸ばし、それが届かないと知ると今度は尻を向けぷっと針を飛ばして、ごろんと桶を倒してやった。しぶき散らしたのは神のたもうた水である。その浸み入った土を食むと、なんとも甘い味がした。ありがたや神の水。後になにやら知らない声が怒鳴っていたが、蔵の中にいる三吉には何の関係もないことであった。
 今日とて三吉は喉が渇いていたから、蔵の高い所から張り板の間隙を見下ろして、ネズミやミネズミが呑気に来るのを今か今かと待っていた。三吉はそうするのが嫌いではない。光の漏れ入る中を埃があちらこちらと行き交うさまは、眺めて実に愉快である。三吉は本当にそういった、なんでもない日常に些細な楽しみを感じるのを好んでいた。この男、見かけに似合わず、人生平凡が一番と考えている。物事の激しく移り変わるのは良しとしない。つまるところ――何の前触れもなく突然遠慮なし戸が引かれて直射日光が津波のように蔵を襲ってその前に立つ人間がばっちり己と目を合わせて真っ青になって半狂乱で戸を押し戻し日差しが細まってぷつんと消えるさまになんて、ほとんど興味を抱けないのであった。ハプニングは嫌いである。嬉しいハプニングと言うものは、滅多に起こることなどないのだから。
 ――それは遡ること数ヶ月前。三吉は森に住んでいた。中でも大きなオリーブに、でたらめに巣をかけて暮らしていた。ある日、ふかふかと積み上がった枯葉の上をうろついている折、三吉は妙な音を聞いた。ごーりごーり。リングマの鼾のようで、違う。ごーりごーり。年老いたギガイアスの説法でもない。怨念めいた低音のもたらす不愉快は、まさに呪いの歌である。瞬間、ずどぉん、ととてつもない音がして、三吉は飛び上がって、集めた数人分の食料をてんやわんやと放り投げ、急いで森を駆け抜けた。確かにあのオリーブの方向であった。見ると、そこに慣れた景色は待っておらず、三吉の巣はでろんと土草の上に落ちており、バンザイと大手を広げて倒れているオリーブのその右腕の下に、妻と娘が潰れていた。
 そんな日に限って風重たく、土と緑の中にもうもうと体液の匂いが立ちこめていた。切り株の新鮮な断面が染みだす滴に濡れている。三吉のがくがく震えるのを、前より開けた黒塗りの空が見下ろしている。その時、どこからか再びあの音が響きだしたのである。ごーりごーり。西か東か南か北か。ごーりごーり。突如、どぶ色の悪魔が赤く裂けた口からそれを発して迫りくる幻想が起こって、三吉は叫んで逃げ出した。まもなく空が泣き始めた。泥濘の森地を抜け無我夢中で辿りついたのは人間の多く住むところであった。どこでもよいからと飛び込んだ、そこは薄暗く埃っぽくかび臭く三吉を迎え入れた。雨脚はごうごうと強まる一方であった。その天蓋を打つ音を別の世界に感じながら、三吉はすとんと眠りについた。
 それが、この蔵暮らしの始まりである。


 そうは言ってもどうせまた来るのだろうと気にかけていた折、埃の流れがふいっと乱されるのを三吉は見た。
 がたんと戸が揺れ、開き始めた。溢れんばかりの春の日差しが蔵の陰鬱を浄化していくさまが眩しい。やがて引き戸の向こうから、おそるおそると何かが顔を覗かせた。短い黒髪に小麦の肌。真っ青でこそ無くなっているが、それは先程急に戸を開けて、閉めた、あの人間の少年であった。
「おぉ悪いな、ここは今俺の巣だ。用なら何か言うてみぃ」
 久々に発した声は思いのほか潤っていた。三吉は言いながら、ひとまず少年に気を許してみようと考えた。せっかくの話相手なのだ。人間だとてむやみに突き放すことはない。
 三吉の試みがどう影響したかは分からないが、少年は何やら考え込んだ様子でぶつぶつと呟いている。こいつがあの時のナンチャラ、どうやってここからカンチャラ。それから顔を上げ、意を決したようにすうと息を吸い込み、あぁいやいや大声出してびっくりさせちゃいけないよなとの面持ちですうと息を吐き、結局いかにも普段通りといった声色で話し始めた。
「……アリアドス、悪いけどここから出ていってほしい」
 アリアドス、三吉のようなみかけの生き物のことを人間はそんな名前で呼んでいる。
 三吉もこの蔵が人間の使っていたものであるとは知っていたから、いつかこの日が来てもおかしくはないと思っていた。そしてその発言の内容としては、およそ三吉の予想していた通りであった。
「ここは、僕たちの……人間の住んでいる家の一部なんだ。ここに飼われてるポケモンもいるけど、君はそういう訳じゃない。だから、ここにいるのはおかしい」
 少年は言い終えると、巣の屑にまみれた蔵の内部をうろうろ見やって、品定めするような懐疑の眼差しを三吉に向けた。
 内容はともかく、一言一言選び抜くような少年の喋り方が、三吉はなんだか気に入った。人間と言うのはせかせかとした小賢しい生き物であると度々噂に聞いていたが、どう伝えようかと思案する少年の言葉には、こちらを思いやる気づかいが感じられる。誰かと口を聞くのさえおよそあの雨の日以来である三吉には、それが一層嬉しくこそばゆいものなのであった。
「しかしなぁ人間よ、お前さんらは長いことここを使っていないじゃないか。俺は冬の初め頃からここにいるが、戸が開いたのは初めてだぞ。使わない場所なら、誰が使ったって構わんだろう」
 そこまで説いて三吉ははっとする。その巷の噂によれば、人間にはこちらの言う事が通じない。言葉が理解できないのである。これでは相手に何を言ったところで意味もない。念願の話相手を前にがっくり肩部を落としそうになった折、少年はこちらを見つめながら難しい顔で腕を組んだ。
「君の言いたいことは分かるけれど」
 ――なんだって? こいつ、ポケモンの言葉が分かるのか。
 三吉の驚きをよそに、少年はじっくりと咀嚼するリズムで話を続ける。
「君が出ていってくれないと僕が困る。ここの家主に君のことを話したら、追い出しとけって言われたんだ。ここの掃除も、僕がしなきゃならない。……僕はこの家の人間じゃない。ろくにお金も払わずに、ここに住まわせてもらってる。だから、言われたことくらいちゃんとできないとだめなんだ。君を追い出さなければ、僕がこの家を追い出されるかもしれない」
 穏和な日の元でやんわりと拳を握りしめる少年の顔は沈痛であり、低めた声は深刻さを携えている。三吉は唸った。どうやら元住む場所におれなかったらしいという点で、少年の境遇は三吉と似通っている。せっかく得た新たな住処を奪われたくないという気持ちには同情の余地もある。が、しかし……。
「君はポケモンだから、他に住めるところも探せばたくさんあるだろうけれど、僕にはここしかないんだ」
 訴えるような少年の言葉に、三吉は頭を持ち上げた。
「おいおいそりゃあ自分勝手というもんだろう人間よ。俺はもう半年近くもここに巣を構えて暮らしてきたんだ。それを後からのこのこやってきたお前さんに出ていっとくれと言われて、アァそうですかホイホイと巣を明け渡す義理があるか? そいつぁ無理な相談だ。分かってくれるか? ん?」
 出来うる限りの優しい口調で語ってやったつもりが、少年はむうと黙りこんで動かなくなってしまった。そのまましばらく時が流れた。吹き抜ける風がさわさわと少年の黒髪を撫ぜるのに、こいつは風のある世界、つまり蔵の外、俺とは違う場所に生きているんだなァと三吉はしみじみ思った。もっとも、今しがた開いた戸口からは絶えず新鮮な空気が送り込まれて、三吉の巣網もさわさわ揺れていたのだが。その間もじっと見つめる少年は、なにやら三吉の動きを待っているかのようでもあったが、ふいに痺れを切らしたとでも言わんばかりにくうと体を伸ばした。
「……じゃあこうしよう。君は出ていかなくてもいい。その代わり、ひとまずその巣だけ片付けさせてくれないかな」
「おいてめぇ話聞いてんのか」
 思わず三吉は身を乗り出した。
「そういうのが自分勝手だって言ってんだ。だいたい、巣っていうのは蜘蛛の大動脈だぞ。生命線だぞ。それを片すってことは死ねって言うのと同じだぜ。つまるところお前さんは、俺に蔵の中でひっそり死ねと言ったんだ。いいな、巣を片すなんてことしようものなら、俺は相手が人間でも子供でも、容赦はしねぇ」
 そしてくわっと前足を上げ毒牙を光らせ臨戦態勢をアピールする三吉の前で、少年はしばし体を竦めた。その状態で向かいあったまま、またしばらくの時間が過ぎた。それは我慢比べであった。むしろ我慢の一人舞台であった。前足を上げ毒牙を光らせた微妙な姿勢を保ちながら、三吉は悠久の流れを感じていた。巣網がぷるぷるぷるりと震え出した折、少年は構えている三吉を見据え、右腰に手を伸ばした。ポケットから取り出したのは、上下紅白に色分けされた手のひら大の球である。ほお、と三吉は感嘆した。噂に聞くモンスターボールとは、ポケモンをこじんまりした空間に閉じ込め、かと思うと解放しては意のままに操ってしまうという、摩訶不思議な道具である。
「お前さんトレーナーだったのか。やるのか? ああん?」
 ちょいちょいと前足を動かして挑発する三吉に対して、しかし少年はすぐにそれをしまいこんだ。
「……あんまりこういうことはしたくない。僕だってトレーナーのはしくれだし、野良をむやみに傷つけないってマナーくらいは知ってるつもりだ。でも、全部が全部ポケモンの都合を尊重するべきだなんて僕は思わない。君だって馬鹿じゃないなら分かるだろう。人間とポケモンは、いつだって仲良く一緒に暮らせる訳じゃない。ここは人間の住むところだ。こっちの領域を侵してるのは君の方だ。住み分けなきゃお互いが迷惑する」
「そいつは前提が間違ってる。人間の住むとこ、ポケモンの住むとこ、なんて一体全体誰が決めた? 現に俺はここに住んでいるんだ。人間の尺度で線引きしてもらっちゃ困る」
「新しく巣を作り直すのは億劫かもしれないけれど、ここでじっとしてるよりかは君にとってもいいんじゃないかな。森にいる方が餌や水もずっと手に入りやすい。こんな狭いところじゃなくても、君くらいのポケモンなら、どこでだってやっていけるよ」
「だからそれは人間のわがままだろうよ。自分たちが暮らしやすい場所からポケモンを追い立てるために都合よく勘違いしてるだけだ。蜘蛛には蜘蛛なりに、ポケモンにはポケモンなりに、住み易い場所とそうでない場所がある。どこでもやっていけるなんてのは大間違いだ、人間たちの勝手な思い込みだ。ポケモンと話のできるお前さんなら、分かってくれるだろう?」
 ようよう前足を下ろすと幾分落ち着いた心地がしたので、三吉は終盤諭すように言って聞かせた。人間というやつは、ポケモンは皆野山に放っておけばよいと思い込んでいる節がある。この少年も例に漏れずそう述べた。
 けれども、三吉は確信している。生身のポケモンの真実を知ることによって、この少年は必ず良いトレーナーに成長できるであろう。ポケモンの言葉を解せる人間などというものはそうそうおるまい。三吉は少年に、人間とポケモンの進むべき未来を見ている気がしたのであった。
 三吉は少年に期待した。蔵の外の少年に、美しい人間への希望を込めた。だからこそ、困ったように考えあぐねた結果少年が放った返答に、三吉ははらわたを猟銃でぶち抜かれるほどの衝撃を覚えるのこととなるのである。
「……なあ、無駄な時間だと思わないか。君が譲ってくれさえすれば、お互い傷つくこともない。面倒起こしたくないんだ、分かってくれないかな」
 ――無駄。面倒。それは望みとはあまりにもかけ離れた答えであった。
 その瞬間、三吉の中で、ぷんと軽快に重石が弾けた。
 我慢の、限界であった。
「なぁ、おい、え、そりゃあてめぇ随分勝手がすぎるだろ。どうして俺がてめぇのために住み処手放さなきゃならねぇんだ。どうしてポケモンが人間のために譲ってやらなきゃならねぇんだ。ちょっとばかしヘコヘコ媚びてるポケモンがいるからって調子に乗ってんじゃねぇ。いいか、勘違いするんじゃない、ポケモンのどいつもこいつもにてめぇらの言うことを聞かせられると思うなよ。むしろそんな糞野郎は少数派だっててめぇの胸に刻んどけ。だいたいの野良は人間どもを憎んでいる。あぁてめぇらが偉そうだからだよ! 自分たちじゃあ非力でろくな技も使えないくせに、こうして威張り散らしていやがる。人間ってのはいつもそうだ。チンケな容器の中に閉じ込めて飼い馴らしたり、殺し合いギリギリのところで戦うよう指図したり、ヒラヒラゴテゴテした妙なもん着せたり脱がせたり、それでいてひとたび寄り集まると気味の悪い偽善面晒して『ポケモンは友達! ポケモンを大切に!』、ああまったく嫌気がさすぜ。人間の手慰みで人生めちゃくちゃにされたポケモンたちがどれだけいることか。まずい餌だけ食わせて、てめぇの代わりに喧嘩をさせる! 働かせる! 自分のバロメーターとしてポケモンの強さを誇示する! ポケモンがいなけりゃ生活が成り立たないことは分かりきっているのに、それを下僕としか見ていない。自分たちがポケモンに比べどんだけ矮小な存在か、いつまでたってもてめぇらは気付かない。話し合いの時間が無駄だ? 面倒だからさっさと出て行け? 冗談じゃない! 第一、俺がこんな暗くて狭くてかび臭いところに住まなきゃならなくなったのは誰のせいだ? 虫や木の実を取り、明るい日の元で妻と娘と談笑した森での毎日、それを打ち崩したのはどいつだ? 俺の豊かなあの住処を、平凡で幸せなあの生活を、平気な顔して奪っていったのはどこのどいつだ!? ――てめぇら人間だろうが!」
 言い切ってはずみで吸いこんだのは、普段より澄んだ空気であった。
 ぜぇぜぇ息つく三吉の脳裏に、次々と記憶が溢れていく。――空。若草。湧水の香。色づき移りゆ森の四季。一目惚れした彼女。抱く娘の温もり。何度も嵐にやられた巣網。ずっと見守っていてくれた、大きな大きなオリーブの木。夢のように浮かんでは消えるすべてを奪ったのは、あの恨めしい音であった。
 実はあの音の正体に、三吉はいくらか前に気付いていた。しかし気付いたところでどうすることもできなかった。どうしたところで何も戻らないことは憎たらしいほどよく理解できた。三吉には赤く滾る怒りから目をそらすことしか、講じる術を持たなかったのである。
 幸いにしてあの日から始まった蔵暮らしは平穏安息であった。気を落ち着かせるには十分な時間も経過した。十分すぎるほどの空白の時間が、悠々と流れて消えていった。悲しいほどに何もない、得るものも失うものもない堕落した日々であった。埃の往来を眺めることをただ愉快だと決めつけて、自らの感情に蓋をした。板間から漏れる光の屑を延々と睨み続けたのは、認めよう、確かに外に憧れているからだ。しかし、外には無数の悪魔が蔓延っていることを、三吉はよく心得ている。反吐が出るほど厭らしい悪魔の存在が、三吉を惨めな蔵暮らしへと追いやっていたのであった。
 あの音。それは切り殺される森の悲鳴であり、同時に、おそらく本当に、悪魔の口からも零れ落ちているのだ。
 少年は結局、三吉の思ったような人間ではなかった。他と同じく利己的で、危険な思考を忍ばせている。はなからこちらを理解する耳など持ち合わせていなかったのである。三吉は裏切られた気持ちでいっぱいであった。蔵の内と外とを隔てる見えない膜を、この少年こそ取り払ってくれるのではないかと、心の内に期待していたのだ。
 突風が吹きつけ、ばちばちと蔵に小石が爆ぜた。風の唸りの中で少年は動かなかった。少年は三吉を見ていた。三吉は気付かなかったが、前髪の影にちらつく瞳は、猛禽のごとき鋭い光を湛えていた。それは紛うことなく野生の光であった。
「……どうしても、出ていかないんだな」
 呻くような少年の声に、三吉は喉がかあっと熱くなるのを感じた。
「まだ分からねぇっていうのか、一体何度言わせれば気が済むんだお前が何を言おうと俺はここから一歩たりとも――」
「水鉄砲」
「え?」
 そこで三吉と目を合わせたのは、少年の背後から飛び出してきた一匹のビーダルであった。
 ビーダルは一瞬頬を膨らませると、出っ歯の奥からぶじゃあと水を吹き出した。もちもちした腹がどくんと脈打つのを見る間に三吉は水流に飲み込まれた。前足を取られ後ろ足を取られ頭を押され背を押され、千切れた巣網が体じゅうに絡みついて三吉はそれごと吹き飛ばされた。ごんと鈍い音して頭打ち、打った戸棚がぐらりと傾き、引き出し滑り落ちあれやこれやが宙を舞い、壺やら鉢やら分からないものがヒビ入って割れて崩れて流されるのをきらきら光る水玉模様の中に見た。珍品たちのどんがらがっしゃんお祭り騒ぎで身も心も揉みくちゃにされ、意識はああ、はるか彼方の夢幻の園へ…………次に気を確かにしたその折、三吉は思わず前足を目の前にやった。すかんと晴れた青空が眩しい。いつの間にか、蔵の外まで押し出されたのであった。
 ついさっきまであれほど有難く思っていた水はぐじゃぐじゃと体を濡らし、しとしと滴り落ちている。腕のひとつもずっしりとしてまるで言うことを聞かない。それはあまりにもあっけない『戦闘不能』であった。
 日差しを遮るようにして、少年とビーダルが揃いこちらを覗きこむ。少年は先程より幾分落ち着いた表情で、物言わぬ三吉の隣に腰を下ろした。
「……弱肉強食って、知ってるか」
 ずんぐりむっくりがふんふん鼻を鳴らした。構わず少年は続けた。
「君に欲しいものがあって、それが誰かのものだったとしたら、君は戦って勝ち取らなきゃいけない。どこかで手に入れたものにあぐらをかいて、それが奪われたからって誰かのせいにしたり、権利ばっかり主張するのは、ただの『甘え』だ。僕はここに置かせてもらってる以上、ここを守るために戦う覚悟があるし、もし元の家に帰れるなら、そのために最大限の努力ができる」
 少年はすくっと立ち上がると、ズボンのポケットからもう一度モンスターボールを取り出した。
「僕は君に勝った。今日からこの蔵は僕のものだ。君がここにいたいと思うなら、僕を倒してみろ」
 戸口の前は水溜りとなり、日に光る角を映している。
 その時だった。どこからか人間の怒鳴り声が聞こえて、少年ははっと顔を上げた。水鉄砲の一撃に煽られた蔵の内部は、浸水どころか壊滅的な被害を受けている。途端に少年は最初に見た時のような真っ青になって、どうしよう、と早口に漏らすと、慌ててどこかへ駆けていった。
 水溜りに映し出された気持ちの良い空合いが、風のリズムで軽やかに揺れる。久方すぎる日向のせいか、はたまた水と一緒に悪いものも流れてしまったのか、三吉はせいせいした気分であった。胸の中にむくむくと、またあの森でやり直せる、という気が起こりだした。元の生活は戻らなくとも、新しい暮らしを、新鮮な気持ちで始めよう。この蔵から脱することで、三吉の人生は今再び動き出そうとしているのであった。
 門出に相応しい、美しい日和である。蔵は日差しに鈍く輝き、戸口開け放ち水に洗われた今が一番見事なものと思われた。
「……敗者は去るのみ、か」
 三吉の呟きにビーダルはひょいと顔を上げ、もぐもぐ何かを食みながら言う。
「理不尽だろう、人間というのは」
「あぁまったくだ。どうしてこんな生き物の言うことを聞きたがるのか分かりゃしない。お前さんのようなポケモンがいるから、つけあがってしまうというのに」
「野生のには分からんだろうねぇ。やつらはそういうところがかわいくて、魅力的なんだよ」
「……飼い馴らされてるやつの、考えることは」
 ビーダルはむふぅと鼻息を立てて笑った。
 向かいの家屋から、山のような雑巾を抱えて少年が戻ってきた。ぼろ布をぽいぽいと蔵の方へ放り投げ、瓦礫と化した壺の類を拾い上げおろおろと首を回すさまは、確かにまぬけでかわいいとも見てとれる。
 とにもかくにも、腐っていた三吉を蔵から引きずり出したのは、紛うことなくこの少年なのであった。小憎い背中には恩義も感じる。せめてもの報いにと、三吉は体を揺り起こす。じっとりと重い体でも動けないほどのことはなかった。
「立つ鳥跡を濁さず、だ。人間よ、しばらく片づけを手伝おう」
「――なぁさ、野生の」
 意気揚々と蔵の内部へ入っていく三吉に、再度ビーダルが声をかける。
「さっきから聞いてりゃ、この坊主にポケモンの言葉が通じるとでも思ってるみたいだけど、とんだ勘違い野郎だね、あんたは」
「え?」
「あたしらの言うことなんざ理解しちゃいないよ」
 三吉には最初、ビーダルの言う意味が分からなかった。
 振り向くと。蔵の外には少年が、それを見て――ついさっき追い出したアリアドスが蔵へのこのこ戻るのを見て、わなわな拳を震わせて、
「……知ってるんだぞ。ひと月前にここでバケツ倒したのお前だろ。毒針が転がってるの見つけたんだ、あのせいで、あのせいで、僕がどんだけ怒られたか……!」
「い、いや待て、そりゃあしかし俺はだな」
「――痛い目を見ないと、分からないみたいだなっ!」
 今日一張りのある声でそう言うと、少年は再三モンスターボールを取り出して――



 春めく蔵に、蜘蛛の悲鳴が轟いた。








「……あったな、そんなことも」
 今、あの頃より低くなった声でそんなふうに呟いて、あの頃よりずっと高くなった目線から、トウヤは酒場の裏庭を眺めている。
 酒場の裏庭に、その古い蔵はもう存在しない。彼の手持ちの二番目、今はガバイトになっているハヤテがフカマルとしてタマゴから孵った翌々日くらいに、夜泣きのついでとでも言わんばかりに飛び出していって暴れ回って、赤ん坊とは思えないパワーをもって跡形もなく叩き壊してしまったのだ。当然だがあの時もこっぴどく――それこそバケツの時なんか全く比べ物にならないくらいこてんぱんに怒られて、しばらく家に帰ることさえできなかった。
 それだって、もう四年も前の出来事だ。掌に乗せた濃い紫の棒状のものを転がしながら、トウヤはぼんやり回想に耽っていた。
 このところ専らポケモン達の運動場と化している裏庭に一つ転がっていた、明らかにハリのものではない太い毒針。それを見つけてからふいに込みあげてきた懐かしさに、トウヤは思わず頬を緩める。あのときのアリアドス、今はどうしているのだろう――『あの夜』の後の彼の末路を思うと、なんだか居た堪れない気持ちもした。
 その手元を、案山子草へと成長したハリがひょいっと覗きこむ。ぱちくりと瞬きを繰り返すハリは、あの件を思い出したように見えた。興味深そうにこちらを見ているハヤテに待っているよう掌を向けて、トウヤは家の戸口へ手をかける。中で寝ているビーダルのヴェルも、もしかしたら覚えているかもしれない。
 瞬間、もの凄い勢いで目の前の扉が押し開かれて、トウヤはとっさに体を引いた。
 飛び出し結局ぼすんと彼の腹に飛び込んできた長い金髪の子供は、うわっと声を上げて、驚いて見下ろしている彼と目を合わせると、わたわたと距離を取って、ごめんなさい、と恥ずかしそうに頭を下げた。トウヤが小さな声で、いや、とそれをなだめる前に、金髪碧眼はすぐさま顔を上げた。そして手に握っているものを突き出した。
「お師匠様、見てください!」
 手のひら大の小瓶の中には、黄金色の液体が揺れている。
「生花店のおじさんが教えてくださったんですけど、この甘い蜜を集めるのはミツハニーというポケモンで、女王蜂のためにせっせと飛び回るんです! 女王蜂はその蜜で子供を育てて、その子供を、えっと、フェロモン? っていう成分を使って操って戦うんですけど、その子供を自分の胴体の穴に住まわせていて……」
 嬉しそうに語り出す子供の満面の笑顔が放つ輝きは、十年前の自分が湛えていたものと、本当によく似た光だった。
 トウヤは声を上げて笑いはじめた。えっ、とミソラは首を傾げて、その奥でハヤテが甘い香りを嗅ぎつけて鼻息を荒げ、ハリは目をまん丸にしてその小瓶を覗いている。春風が吹いて、黒髪と金髪をさわさわ撫ぜた。
 前と変わらず突き抜けるような青空に、遠く笑い声が渡っていく。







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