*本編 8−12後。




inside:8−12.5


 さて行くか、とグレンが壁から背を離したのは、一度目の『ドラゴンクロー』がニドリーナに入った瞬間だった。階段へと歩いていく背中とフィールドとを交互に見、最後まで見ないんですか、とアズサは声を掛ける。
「見んでも分かる。それよりやることがある」
 大男は振り向きもせず片手を上げた。丁度その時には、二度目の『ドラゴンクロー』がニドリーナの体側を抉っていた。勝負は決したように見える。少し悩んだ後、曲がり角の向こうに消えていく背中を、アズサは追いかけ始めた。

 
 スタジアムを出る時、受付の女番が、ガキだったらついさっきそっちに走っていったぞとご丁寧に教えてくれた。
 雨季にも珍しい位の豪雨だ。地面を雨水が川になって流れている。錆び付いた傘入れに刺さっていたビニル傘をグレンが二本拝借してきて、アズサもそれに甘えた。タケヒロが向かったという方向は、確か彼が『第二秘密基地』と呼んでいるアジトのある方向だ。あそこなら彼は雨が凌げる。それを伝えると、グレンも頷いて、並んでそちらへと歩き出した。
 地面に叩きつける雨も、頭上で傘に突き刺さる雨粒も、暫くごうごうと音を立てていた。傘の淵からひっきりなしに大粒の雫が滴っていた。数メートル先が定かに見えないほどだ。知り合いとはいえ慣れない男性と二人きり無言で、という状況を遣り過ごせたのは、その賑やかさのお陰だった。
「タケヒロの坊主とも、ちょっとした腐れ縁でな」
 グレンがぽつんと言う。顔の位置が随分と高くて、傘に隠れて見えなかった。声は沈んでいるでもなかったが、得意の威勢良さは流石になりを潜めている。
「今回の試合も俺がけしかけたようなもんだ。……いや、止めたんだが。止めたんだが、止まらんと知ってて止めきらなかったと言うか……。一昨日の晩だかに、弟子入りを志願されてな。弟子は取らんが、まあ、ちょっとした手当てぐらいは」
 手当ての仕方なんか知らんだろうしな。妙に言い訳がましいと、自分でも気付いているのだろう。声が苦笑いしている。アズサが微笑んで頷いたのも、向こうの位置から見えているのかは、かなり怪しい。
「優しいんですね」
「優しいもんか。こうなると分かって止めなかった」
「クオンをキャプチャした時も、手伝ってもらって、ありがとうございました」
 一瞬、何を言っているんだとでも言いたげな空白が流れて、それからいやいやと彼が否定を示した。
「楽しませてもらったのは俺の方だ」
「そういえば、私の父が言ってたんですよ。あのヘルガーの青年は見込みがあるって」
「何?」
 不味い話をしていた時はそうしなかったのに、急に屈んで、こちらの顔を覗き込んでくる。その目が驚きに丸まっているのがとても純粋に見えて、父が気に入ったのは彼のこういう所なのだろうなとアズサは小さく笑った。
「サダモリ教育長官が? レンジャーユニオン幹部の」
「ポケモンもよく鍛えてるし粗削りだけど筋もいい、なによりバトルへの実直な熱意が素晴らしいって、褒めてたんです。あの人にしては珍しく」
「当代一のルカリオ使いの、サダモリがか、俺をか!?」
「もう少し若ければレンジャー候補生として採って育ててみたかったって」
「あっ、まさかお世辞じゃないだろうな?」
「違いますよ、本当ですよ」
 お世辞ではないし、彼を見込んだのは父だけでもない。クオンも言ってたんです、とアズサは、そこだけ太陽がさんさんと降り注いだような彼の顔を見て付け加える。
「心根が真っ直ぐで綺麗だって」
 ……むず痒そうに唇の形を歪ませて、目を逸らしてグレンは笑った。見当違いもいいとこだと、照れくさそうに、大声で笑い飛ばしていた。

 タケヒロは傘も差さずに突っ立っていた。
 物陰に隠れて、口を押えて声を堪えながら、アズサとグレンはその様を見ていた。十云歳と思えないような哀愁が濡れそぼった背中から漂っている。見下ろす視線の先に、第二秘密基地『だったもの』がある。何か大きなポケモンがやって来てそこで足踏みしたのかというくらい、平らになっているけれど。
 いつの間に潰れてしまったのだろう。確か廃屋のトタン屋根を利用して、斜めに傾斜をつけて、その下を基地にしていたはずだったのだが。がっくり項垂れて途方に暮れている少年の背中を見ながら、この雨で潰れたんですかね、とアズサは当たり前の感想を述べた。タケヒロに聞こえないように、小さく。
 グレンはまた苦笑いで、顎を撫でながら答える。
「いや、一昨日からじゃないかな。雨が降り出したのが一昨日で、その晩から妙にうちに執着しやがると思ったが、なるほど、帰る場所がなかったのか」
 その雨が段々と落ち着きつつあるのが幸いだった。二人の視界の先で、ヨッシ、と少年は声を上げると、一人で潰れた基地の修理に取り掛かり始めた。ついさっき試合で負かされたばかりなのに、もう切り替えか。健気と言うか、生きる力が、物凄い。
 どいつもこいつも一人で抱え込もうとしやがって、と隣の大男は呆れぼやいてから、元来た方向へクイと顎を動かした。
「ホラ、アズサちゃんは帰れ。手当て道具は揃えてきたから心配いらん」
「……家の方、少し手伝おうかな」
「なぁに言っとるんだ、こんな無様な姿、お前さんに見られたいはずがないだろう」
 じゃあな、と片手を上げると、飄々と歩いていく。振り向いたタケヒロに見つかりそうになって、アズサは危うく路地に逃げ込んだ。
 息をつき、クスリと笑って、元来た道を、アズサは一人歩き始める。
 無様な姿、だったのだろうか。試合する姿も、今の背中も。クオンを相手にしていた時の自分の方が、よっぽど情けなかったと思うのだが。男と言うのは、そういうものだろうか。
 少し歩くうちに降っているかどうか分からないくらいの小雨になって、傘を閉じて空を見上げた。まだ晴れ間は見えないが、段々と空が明るくなってくる。さっきまでの酷い雨が、まるで嘘のようだった。
 一旦帰って着替えをして、紅茶と茶菓子を、買いに行こう。どうせあの子が遊びに来る。ミソラも、そして多分トウヤも。父親と向き合うために彼らに協力してもらったこと、それを御礼しにわざわざスタジアムに会いに行ったのに、結局一言も伝えなかったのだ。それを思い出し始めると、彼の先程の言葉に、はたと思い当たる。『どいつもこいつも一人で抱え込もうとしやがって』という『どいつもこいつも』に、もしや自分も含まれていたのではないか。助けてもらう、ということにあまりにも慣れていないものだったから、親しい人に御礼を言う、という行為に、必要以上の気恥ずかしさが伴ってしまう。
 ……親しい人、か。
 三人遊びに来た時に、今グレンに言ったみたいに、さらりと言えばいい。そうだ。ねえ、皆、助けてくれてありがとう。これ、御礼のお菓子。いいから上がって。脳内シミュレーションを終えて、ヨッシ、と小さく拳を握った自分の姿は、思い返さなくたってさっきのタケヒロにそっくりだ。気恥ずかしいような、ちょっと嬉しいような、面映ゆい心地がする。
 水溜りを踏みかけて、慌てて避ける。と思えばその先の細径は殆んど水没しかけている。道路が整備されているユニオン近辺の都会なら、まず有り得ない光景だ。
 そっと歩くか、一か八か飛び越えるか。少し悩んで覗き込む。映る自分の顔は、緩く綻んでいた。
 あーあ、帰ってきちゃった。ココウに、帰ってきちゃったなあ。






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