*本編 5−8と5−9の間。




inside:5−9.5


 ――腕の中の爆弾が幸せそうな寝顔で静まっているのも、無理はない。テレポートで吹っ飛ばされた先で小さな宴会に巻き込まれ、ようよう抜け出した時には時刻は殆んど翌日に差し掛かっていたのだ。あの小高い丘の家を見上げながら歩く半ばで、知らぬ間に日付も跨ぐだろう。そんなことをぼんやり考えながら、見知らぬ場所で危うく潰されかけていたトウヤは、やや覚束ない足取りで緩やかな坂道を登っていく。
 戻るべき家が見えた。決して豪邸と呼べるような身なりではないが、付近で一等見晴らしの良い場所だ。二階建ての大きな家屋。もうカナミの祖父母は寝てしまったのだろう、多くの部屋の明かりは消えてしまっていて、縁側に間口を開ける居間の奥の方から暖かな光が窺えた。
(あぁ、待たせているのか)
 眠らせないまま。それはそうだろう。あそこは僕の、家人が就寝している中で勝手に出入りしていいような、『帰宅』する家ではないのだから。――正常な申し訳なさが身の内に起こると、酔いが覚めつつあることに気付かされた。早く戻ろう。少しだけ足を速める。
 昼間とはまるで違うすんと冴えた空気が、心地よく火照りを冷ましてくれる。どこからか籠った、丸い音形の鳴き声。ホーホーか。ココウでも、森のあった頃には聞けていた。ふと頬が弛む。やけに大きな気持ちだ。絶対、酒のせいだ。珍しくハリさえ傍にいない、と考えると、だんだん楽しくなってきて、普段なら気が違えてもやらないだろうに、歌なんて、口ずさんでみて。それがあんまりにも酷すぎて、トウヤは一人で笑った。
 己の乾いた笑い声が、誰もいない夜中の細径に、幻のように吸い込まれる。煙のような虚しさが、雫のような遠い記憶が、不意に錯綜して、また幻となってたなびいて。意識はふわふわとしていたけれど、低いところを揺蕩っている。息を吐いて、冷やかな外気を肺に迎える。いろいろなことを、酔いにかまけて忘れているから、楽しいのだろう、多分。
 ヒトの赤ん坊のように身動ぎするリグレーを改めて抱き留めながら、ふと顔を上げた。霞ない空に浮かんでこちらを見つめる星と、月とは、じんわりと滲んで、今宵も闇を彩る。

 寝ている間も鍵という鍵を開けっ放しにしているのも、この街とココウとの大きな違いなのかもしれない。
 物音を立てないように玄関を抜け、元いた広間を目指して、そろそろと戻っていく。神妙に心を入れ替えて暗い居間に辿り着いたトウヤを出迎えたのは、ハリと、マリーの二匹だった。メグミもハヤテも、縁側の方で眠っている。相変わらず不機嫌そうなマリーに促されて見ると、居間に繋がる部屋の食卓に、もう一人突っ伏していた。カナミだ。
 ミソラは先に寝てしまったか。時間を思えば当然のことだけれど。ハリかマリーの仕業なのだろうか、座ったまま完全に寝入っているカナミの肩には、薄手の上着が掛けられている。剥がれかけたそれを直してから、物音を立てないように、向かいの椅子をトウヤは慎重に引いた。
「待ってくれてたんだな」
 低く、そっと呟く。別の椅子を経由して卓上に飛び乗ってきたマリーが、「当然だ」とでも言うようにこちらを見た。
 腕を枕代わりにして寝息を立てる彼女の前に、半分も残していないビール瓶と、飲みかけのビールグラス。向こうの足元に空き瓶が見える。机にあるので二本目か。トウヤは一度席を立つと、ひとつグラスを取ってきて、すっかり温くなったビールをそれに注いだ。それから、主を欠いている相手方のビールグラスへ、カチン、と無言で縁を交わした。
 飲み直しながら、眺める女の顔は、去年よりまた少し、痩せているような気がする。
 ……遣る瀬無い心地がして、トウヤは目を背けた。そういう顔を見る度に込み上げてくる感情は、『同情』という名を与えてしまえばあまりにも冷ややかで、けれど多分それだけでないことは、無意味だと知りつつ、自分でもよく分かっている。
 隣の椅子に寝かせていたはずのテラはいつの間にかハリが抱きかかえていて、その姿が妙に愛らしい。その視界の端で、のそりと起き上がり、ハヤテはこちらを見止めた。メグミもゆっくりと首を伸ばした。
 眠たげに揺れながらやってきたハヤテが、低い怪獣の甘え声を立てながら、自分の腹に鼻先を擦り付けてくる。その額を撫でる。グゥ、と寝ぼけた声を立てて、ハヤテは鋭利な牙を覗かせた。
 あぁ。酔ってる、と上肢末端の感覚の鈍りをそんなところに変換しながら、ふとトウヤは手を止めた。ハシリイの不味いビールの所以でまた熱の灯り始めた自分の指先と、竜の鱗の仄かな冷たさに、何だろう、何かよぎるところがあって――それが、昨晩の酔い潰れた自分に触れた、彼女の指の冷たさと気づくと。
 一瞬、鼻の奥がつんとした。
 ……危ない。やり過ごすためにグラスを一気に干した。それからもう一度、ビール瓶を傾げて。最後の一滴まで落として、空にした瓶を机の上へ。その拍子に衝撃が伝わったのか、ん、とカナミが眉を動かす。
「……あっくん?」
 芯のない甘やかな声には、この家の中では聞き慣れない響きが伴う。
 悪かったな、彼氏じゃなくて。ポケモンたちの手前、その子供じみた悪態は胸にしまっておく。とろんと瞼を上げたカナミが、焦点をこちらに投げた。それから、じわじわとその表情が覚醒に近づいても、自分がその名前をうわ言で呼んだことには、ついに気づくことがなかった。
「……お、帰ってたの。ごめん寝ちゃった」
「待たせて悪かった」
「んーん、いいよ、全然。おかえり」
 言いながら体を起こすが、その肩から上着が剥がれ落ちたことにも気づく様子もない。ただいま、さえなんとなく羞恥する主の傍ら、テラを抱きかかえたままハリがのそのそと拾いに向かった。
「もういいから、早く寝ろ」
「うん……あれ、トウヤ顔赤くない、どうしたの」
 待たせた手前外で飲んでいたとも言い辛く、苦笑だけ返すトウヤを見、その手が出した覚えのないグラスを携えていることに気づく。それから、自分の手近からいつの間に離れたビール瓶。
「まさか、そんだけ飲んで酔ったの? ここに残してた分でしょ?」
「そうだよ」
「アハハ、弱すぎ。本当に弱いね」
 人工灯の薄暗い深夜に、けらけらと邪気のない笑い声。まだ不機嫌を崩さないマリルと、トウヤはちょっとだけ目を合わせた。
「真っ赤じゃん」
「そんなに赤くなってないだろ」
「なってるよ、耳とか」
 上機嫌にグラスを揺らしていたカナミは、言いながら、ふと表情を柔らかにする。
「なんかさ、思うんだよね。そうやってお酒に弱いの見てるとさ。ああ、トウヤって、ここの人じゃないんだなあ、って」
 少しだけ、ほんの少しだけ寂しげに笑んで。徐ろに伸びた手が、マリーの肉厚の耳を遊ぶ。くすぐったげに彼は目を細めた。
「観光客増えてるのか、最近」
「ん? ハシリイ?」
「昼間に白人の集団と出くわした」
 無意識にトーンの下がる声に、対照的にカナミは目を丸くした。
「へぇ! そんなのが来るんだ。水陣祭見に来たのかな」
「分からないけど、行商という感じでもなかった。こっちの言葉も使えないようだったし、派手な旅人のなりで」
 白人の旅人、と反芻すると、なるほどとカナミは頷く。
「それでミソラちゃん変だったんだ。帰ってきてから」
 顎を完全に自分の腿に預けるハヤテが、ミソラ、という言葉に反応して、眠たげに瞼をもたげる。その頭の重みを撫でながら、トウヤも小さく首肯した。
「……やっぱり変だよな」
「変だよ。どうしちゃったのかと思った。最初からちょっと控えめだなとは思ってたけど、今日……ずっと泣きそうな顔してたもん」
 泣きそう、ではなかった。気づかないふりをしていたが、あの時自分が頑なに手を引いたミソラは、声を堪えて、涙を流し続けていた。――そんな顔をさせた苦味に耐えかねて、意識は手元へ落ちる。
 連れてくるべきではなかったのかもしれない。
 トウヤは静かな声で、ぽつりぽつりと、淡々と、事の顛末を語った。通じない言葉を以って、何か早口に捲し立てられていたミソラ。手を取られて連れて行かれそうになったこと……。本当にあれの知り合いでないのかは正直確証が持てないけれど、と漏らすと、大丈夫だよとカナミは真剣な顔で押す。
「でも本当に不思議っていうか……何があったんだろうね。砂漠に倒れてたんでしょ、ひとりぼっちで」
 そういう旅の人に事情があって置いていかれたのか、そうでない理由が存在するのか。……置いていかれた、か、とトウヤは独りごちて、またコップの中身を煽った。その表情を窺いながら、カナミも似たようにグラスを持ち上げる。
「でも、さあ。トウヤも変だよ」
 全く想定しない言葉に、トウヤは内心動揺して目線を寄越した。
「何が」
「泣きそうな顔してる」
 よ? と真顔で問うカナミの背後で、いつもの無情な微笑みの形で、ハリがこちらに顔を向ける。
 ……舌を巻きたくなる女の鋭さ。不味い液体を最後に流し込む。辛さが喉を焼くようだった。
「まさか」
「してるよ」
「酔ってるからだ」
「違う。帰ってきてからずっとだよ。何かあったの」
「……ミソラの事があって、僕もちょっと弱ったからかな」
「本ッ当にそれだけ? 話してみなよ」
「何もない」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
 睨むようにこちらを見るのは、カナミではなく、その手持ちのつぶらな黒目だった。女の方は、つまらなさそうに視線を落としながら、円を描くようにグラスの残量を弄ぶ。
「……トウヤが話してくれないと、私も話せないじゃん」
 呟きながら、唇を濡らすようにグラスの縁に付ける。ついと振れる視線は、窓の外へ。トウヤも体を捻ってそれを見た。暗闇の中に、月明かりに照らされた他より立派な家の塀が、鈍く浮かび上がっている。
「本当に何もないんだ。ちょっと昔の事を思い出した。わざわざ聞いてもらうようなことは、何も」
「……トウヤ」
 相手がこちらに向き直ったのを確認してから、カナミはコトンとグラスを置いた。
「もし、今、私が、もう一回付き合おうって言ったら、トウヤどうする?」
 その時、マリーが己の耳を疑わしく戦慄かせ。
 突っ立ったままのハリの月色の目が、微かに薄く広がった。
 何故だろう、問われたトウヤ自身は、その問いに、それほどの動揺も覚えなかった。何を思ってそんなことを聞くのだろう、と……その中に、どれほどの真実味が秘められているのだろう、そればかりが気にかかる。実直な双眸から目を離さないまま、けれども彼女の求める返答を正確に理解するのが、今のトウヤには難しかった。アルコールでぼんやりと霧立つ脳裏に、言葉が幾度も往来する。手持ち無沙汰に持ち上げたグラスは、先程干してしまったばかりだ。
 ゆっくりと二つ、瞬きをして。トウヤは静かに苦笑を浮かべた。
「酔ってるな、珍しく」
「うん……」
 子供のするように、カナミはこっくりと頷いた。
「非常に眠い、です」
「早く寝なさい。疲れてるから回ったんだろ」
「……疲れてんのかなぁ」
「そうだよ」
「でも、返事が聞きたい」
 トウヤは短く息をついた。
「付き合わないよ」
 ふっ、と脱力するような気配は、マリーからだ。伸び切った後のゴムのようにへなへなと口元が緩む。簡潔な答えに、カナミは優しげに、その表情に陽を差した。それから頬杖をついて、朗らかに問う。
「なんで?」
「なんで、って……」
 結局視線から逃れて、トウヤはまた自分の手元を見た。空のグラスを爪が小突く。軽い音色。ああ、喉が乾いた。軽はずみになれない話題とか、今から口をつこうとする、自分の言葉なんかが、きっと、それを助長している。
「……いい人だよ、アキトさんは。僕と付き合うよりも、あの人と一緒にいた方が、君が幸せになれる。だから付き合わない」
 吐露する心情は幾らか本気で、けれどその本気さの程度は、自分でもよく分からなかった。
 一瞬きょとんとしてから、盛大にカナミは笑った。確かに酔っ払っている時の笑い方だった。何今の面白い、もっかい言って、と煽ってくるのは、酔っていなくたってそうだけど。誰か起こしやしないかと心配になるくらいな声は、トウヤの腿に顎を乗せた体勢ですっかり寝入ろうとしていたハヤテをぐずりと動かしめた。
 はぁおかしい、と溜息をつくくらいに笑い飛ばしてから、残り少ないビールを一気に飲んで、でも、と声を落ち着ける。
「ありがと」
 その声が、また少し、ともすれば気付かないまま通り過ぎてしまいそうなくらいの虚しさを孕んでいて。首を振って、トウヤはやや声をひそめた。
「うまく行ってないのか、あの人と」
「ううん。順調だし大好きだよ。凄い優しいし気が利くし、背も高いし、力も強くて頼りになるし」酒か、眠気か、自分だって少し赤みのある頬で、そうやって彼氏の良い所を数えながら、目の前の元彼氏の冴えない双眸にはにかむ。「誰かさんと違ってイケメンだし」
「ほっとけ」
「でも私嫌いじゃないよ、トウヤの顔」
「……もう寝ろよ、本当に。酔いすぎだ」
「あー、照れた、照れた。好きとは一言も言ってないのに」
 にやにや笑いながら指差してくるカナミの手を、トウヤは不躾に払いのけた。
「家のこともさ」
「うん」
「うまく行ってるんだよ、凄く。よその話聞いてたら、あの年でじいちゃんもばあちゃんも元気で健康ってだけで、恵まれてるんだもん。エトなんか、今はトウヤ来てるからああいう風だけど、最近よく手伝いしてくれるんだよ、洗濯とか、たまにご飯の準備も。はぁちゃんもさ、もっとわがまま言ってもいい歳のはずなのにいっつも良い子にしてるし、色々分かるようになってきて、助かってるし……お母さんも……ちょっとずつだけど、だんだん良くなってて、さ」
 滔々と話して、にっ、と口元に、笑みを作って。
「うまく行ってるんだよ。いろんなことが順調で、楽しいことも多くて……なのに、なんだろう」
 笑みを作って、ゆるゆると、けれど目に見えて、瞳も声も艶を失っていく。
「……なんだろうね。なんていうか……」
「……カナ」
「なんでだろう、私が欲張りすぎてんのかな。充分幸せなんだよ、いろんな人に幸せにしてもらってるっていうか、……何なんだろうね」
「カナ」
 遮るように少しだけ声を張る。聞いていられない訳でもないし、聞きたくないという訳でもない。ただ、ふ、と笑む彼女の、一心に営みを支えてきた今にも崩れそうな気丈さが、移るくらいに痛かった。
「皆、もう寝てる。誰も聞かないよ。……僕の前で」
 既に、こんな気取った台詞を吐いていい立場ではないことは、重々承知しているけれど。
「無理するな」
「……ははは。うん」
 力なく笑って、カナミは頷いた。一度こちらと目を合わせて、息を吐きながら視線を落とす。その手がまたマリルへ伸びる。指先でくすぐるように額をさする。目を窄めながら、ルルゥ、と気遣うように、マリーは一声鳴いて。うん、とまた、小さく頷く。
 その時、堪えていた唇が歪んで。
 その手が彼女の目元を覆った。
「……ごめん……」
 肩が震える。笑うのと似たイメージで短く声を零しながら、上半身を机に小さく伏せた。マリーの子供をあやすような優しい響きが少し焦って、ヒトには分からない言葉で彼女へ降り注ぐ。トウヤは黙って見ていた。本当は背中くらいさすればいいのかもしれないし、それくらいならば許されるのかもしれないけれど、それをするには――遠くて、僅かに、あまりにも遠くて、代わりにそっと目配せをする。意図を察したハリが、テラを片手に抱えなおして、彼女の丸まった背中を大きな掌で撫でた。
 それを感じて、あっはっはと無理に笑いながらカナミは体を上げた。感謝と謝罪を述べながらハリの帽子へと頬を寄せた。その上気した頬に筋となって伝う涙が、とても美しく見えて、トウヤは目を閉じる。
 こんなにも、その幸福を願っている人を、こうやって七年間も、泣かせ続けているのだ。
「あー、あーっ、ごめん! だめだ私、今年は絶対泣かないって思ってたのに」
 あっけらかんと言い放つ彼女にはいつものさっぱりした笑顔が戻ってきていて、けれど目尻からはまだ次々涙が溢れ続けた。
「去年エトに見られたでしょ、こうやって話しながら泣いてるとこ」
「そうだったな」
「あれ、トウヤが帰ってから、エトに聞かれたんだもん。泣かされたのかって、心配して、あの子姉ちゃんのこと大好きだからさぁ、私が言うのもなんなんだけど」
 声を揃えて笑う。彼女の顎から滴る雫を額に受け止めながら、机に置かれた人の指を、マリーの小さな手が忙しなくさすさすと触れた。彼だって毎年、どうしていいのか分からないのだ。
「愚痴聞いてもらってた、って言ったら、ふーんとしか言わなかったけど、ちょっと嬉しそうだったの」
「そうか」
「トウヤさぁ、あれからうちに電話してきたでしょ? 私がいない時狙ってさ。あれ、面白かったなぁ。あの日から、エトの奴、見違えたように家の手伝いするようになったんだよ」
 なんか言ったんでしょ、と問われると、トウヤはさあなと首を捻った。それを見てまた笑う。目元を拭って、マリーの頭を強めにぽんぽんと叩いた。まだ心配げに見上げるマリーに、大丈夫大丈夫、と、努めていつもの声色を返して。
「もー、毎年泣かされてるじゃん。私のこと泣き虫だと思ってるでしょ、普段はこんなことないのに」
「僕は悪くないだろ」
「悪いよ、トウヤが悪い! なんか、トウヤの声聞いてると、なんか、なんかさぁ、涙腺緩むっていうか、泣きたくなるんだもん、トウヤのせいだよ、なんでだろ」
 いつもの調子でけらけらと笑いながら、はらはらと雫を落としながら。そんなことを言われたって、どうしようもない。賑やかさに起こされたのか、また瞼を上げて、手元の小竜の大きな目がきょとんとこちらを見つめていた。寝ていていいよ、と額から鼻先へ撫で付けると、その獰猛な口元が、幸せそうに緩んだ。
「……なんでだろ。あれかな」
 発作的な高ぶりが収まったのか、ちょっと真面目な顔になりながら、カナミはぼそりと呟いた。
「トウヤがダメ人間だからかな。見てたら物悲しくなるのかも」
「……泣かせてやろうか」
「ムリムリ」
 冗談、とトウヤの弱い凄みを受け流して椅子の背もたれに寄り掛かる。もう殆ど、酔っぱらっていることを除けば、平生の彼女に戻ってきた。
「でも料理できる以外に取り柄ないよね」
「酷い言われようだ」
「だって料理くらいしか勝ち目ないよ、あっくんが完璧すぎて」
 どうして彼氏と比べるのか。
「でも、完璧じゃないとこがいいのかもね。……頼りになるから、甘えればいいんだろうけど、甘え方とかよく分かんなくて、釣り合うように、ってむしろ気張っちゃって、たまに疲れたり」
「……ご苦労様」
「その点、トウヤってダメだからさ、こう、あー私ももうちょっとダメでもいいのかも……とか思って……それで気が抜けたりとか……」
 そう言って――また、瞳に涙を浮かべる。なんと言っていいのか分からなくて、トウヤは黙っていた。ちらりと縁側に視線を移すと、こちらに顔だけ向けていたメグミと一瞬目があって、すぐに視線を逸らされる。その顔の向く先を、トウヤも見た。しんとした夜の庭。ひたひたと世界を濡らす闇。ひっそりと佇む月明かり。
 はーっと溜息をついたカナミの言葉が、その夜闇に、似合いの色合いをもって溶け消えてゆく。
「疲れたなぁ……」
 その、あまりにもありふれた愚痴の一言に――少しだけ泣いてしまいそうで、また、幾許か、トウヤはきつく目を閉じた。
 それから、ハヤテの鼻先を叩いて退かせると、すくっと立ち上がった。ぽかんとしてカナミの見つめる中、歩いていって、無断で人宅の冷蔵庫を開けると、そこに当たり前のように並んでいるビール瓶を一本取った。掴む掌を、温い感情を切り裂くきんと鋭利な冷たさ。その場で栓を外すと、すたすた戻ってきて、彼女とマリルの目の前に、どんっとそれを置いた。
「励ますの下手なんだ。知ってるだろうけど」
「――うん、よく知ってる」
 マリーが憮然としてこちらを見上げる。けれど、その目の軽蔑の色は、今宵はやや薄らいで見えた。アルコールのせいだろうか。
 仕切り直しだ、と言いながらグラスに注がれる液体をまじまじと凝視したカナミは、注がれ終えると、素早く瓶を奪い取った。
「付き合え!」
「酒にな」
「当然じゃん」
 言いながら、ざっくばらんにビールを注ぐ。すっかり目を覚ましたハヤテがふんふんと鼻息を立てる。のそのそとこちらに戻ってきたハリは、相変わらずおとなしく眠っているテラを抱えたまま、トウヤの隣の椅子を引いて座った。
 グラスとグラスのぶつかる音が、小気味よく、月夜に映える。夜はこれからだ。






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