*本編 5−4の劇中。




inside:5−4.5


 静けさが痛い。妙に怖かった。暗闇の中意識は手を離れてふわふわと彷徨い続けた。酔っている時、楽しい時はまだいいけれど、一人になると怖かった。暗闇の中。浮かび上がる景色は、ココウで、ホウガで、ハシリイだった。行く先で出会った、様々な酒の席の記憶。それだけじゃない。気が付くと、子供の頃へ、子供の頃へと、よく流れていった。賑やかな場所。怖くなる。暗い。ここはどこだ。色々な頃の自分に戻った。いい思い出ばかりではない。目を覚ますのが怖かった。目を覚ますと、どんな現実が、目の前に待ちうけているのだろう。分からなくなる。自分の今がどれなのか、分からなくて、怖かった。その先に待ち受けていた辛い事や悲しい事が、また襲ってくるのが、怖い……
 ――そのとき、何かが、額に触れる。ひんやりとしたもの。柔らかく髪を撫でる。その冷たさが心地よい。力が抜ける。そう、何も、怖くはない。今は。そこを起点に、体が先端に向かってゆっくりと、今に引き戻されていく気がした。

「――あ、起きてた?」
 トウヤがぼんやりと目を開けても、その傍に座っているカナミは、撫でるのを止めようとはしなかった。
 何度目だろう。また溜め息をつくと、自分の体の酒臭さに、トウヤは辟易する。多分服にも相当零した。風呂に入れる状態でないのは分かるが、せめて着替えた方がいい。思っても体は動かなかった。微睡の中にまた、吸い込まれて行きそうだった。
 けれど、それはまだ、少し怖い。
「寝ちゃったかと思った」
 苦笑いしながら言うカナミに、返事をするのも、少し億劫だ。ゆっくりと瞬きしながら見上げる天井は、少しムラのある、白の壁面。それの、部屋の真ん中あたりの模様が、見様によってはマリルになるのだ。言って同意されたことはないけれど。酔いつぶれて、この部屋でこうやって仰向けになってあれを眺めているのが、とても懐かしい。その懐かしさはもう毎年のものになった。
 そして、こうやって、子供みたいに扱われているのも。……目を合わせると、ん、と問い返してくる。時折視界に映り込む、家庭を守る女の指。体には見慣れないエプロンを纏っていた。
「……冷たい」
「何が?」
「指」
「あっ、ごめん洗い物してたから」
 ぱっと手を離した彼女に、それが心地よかっただなんてもう言えもせず、トウヤは小さく笑んで、背を向けるように寝返りを打った。
 目に入る。緩んだ包帯の下に見える、異常な色をした左腕。そこにリグレーが子猿のようにひっついて、すやすやと寝息を立てていた。
「今年もお疲れ様」
「ああ。カナも」
「おう! 打ち上げん時もよろしくねー」
 嫌だよ、と笑う自分の声が、床に響くのが分かるくらいに、もう誰もいないのか。……皆帰っちゃったし、じいちゃんもばあちゃんもエトもハヅキも引っ込んじゃったよ、とカナミは言った。だから、お前も寝室に戻れと。もうちょっとがんばって起きろー、と背中を叩かれて、渋々起き上がる。まだ十二分にアルコールが残っていて、それだけの動きで世界がぐらぐらした。
「いつもの部屋に布団敷いてるから」
「悪い」
「あ、ミソラちゃんもそこに一緒だけど、良かった?」
 頷くと、仲良いんだね、と笑われる。
 ミソラ。ミソラはいつからいなくなっていたのだろう。何か暴れて迷惑をかけたことは覚えているが、具体的にどうこうはもう既にいまいち思い出せなくなってきていて、その景色にミソラがいつまでいたかもかなり危うい。ただ、あの細い髪の毛に自分の指が通っていた感触は、なんとなくだが残っていた。
「ミソラには」
「うん」
「嫌な思いをさせたかな」
 カナミは目を細める。あれにすれば知らない町に、知らない人たちの住むところになされるがまま勝手に連れてこられて、碌に構われもしないで、酔いどれの中に放置されて。自分ばかり楽しんでいたと思い始めると、質の悪い後悔が胸を侵食しはじめた。
 嫌な思いをさせた。よかれと思って連れてきたけれど、結局、自分の満足の為だけで。
「私も忙しくて、あんまり話しかけてあげられなかったなぁ」
「明日……」
 いや、けれどもう、色々遅いか。……でも、酔ってる今なら、と思い立って、ふらりと立ち上がって。左手が重い。動かないテラを胸に抱いた。そうだ。酒のさなかに、隣にあって、横から抱えるように撫でていた、金髪の小さな頭。傍に置いておきたいものが増えていることに気が付いて、それがおかしくて、トウヤは一人笑った。
「一人で行ける?」
「行ける」
「はい、おやすみー」
「おやすみ」
「あ、待って。着替え」
 いつの間に用意していたのか、隣の間から一式揃えた寝間着を抱えてきて持たせると、それから、とカナミは顔を上げた。
「言うの忘れてた」
「何?」
 ふふん、とカナミはいつにない笑い方をして。
「おかえり。トウヤ」
 そう言ってまた、子供みたいに、わしわしと頭を撫でられる。
 心臓がぎゅうと締まった。
(……馬鹿が)
 黙って背を向けた。ふらふらしてるよ、気をつけなよ、と笑う声が聞こえる。こんなやりとりに、そんな毎年の言葉にさえ、いちいち動じるほどに、ここにいるのが、好きで、好きで。
 大きく息をついた。全部吐き出すみたいに。暗くて冷たい廊下へ歩いていく。懐かしい景色。――ああ、帰ってきた、と。そんな風に思ってしまえるのが辛い。いつまでいるの、なんて言われるのが、ずーっと居てくれるって、なんて、言われるのが、凄く、辛い。
 そんな事、叶うはずもないのに。
 その人たちに、こんなにも家族にしてもらえるのが、凄く、怖い。






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