*本編 3−7の劇中。




inside:3−7.5



 口が下手で、作り話をするのは余っ程苦手だ。大きな嘘なんてうまく吐けた試しがない。
 リューエルの腕章をつけた中年の男の前でしどろもどろとし始めた主に、思わずため息が漏れた。たった今外から戻ったばかりの隣の隣のボールから、クスクスと笑い声が聞こえてくる。お隣のボールからは、マスターがんばれぇ、と囃すような声が。随分と気楽な奴らだ、まあわたしもそれと多くは違わないか。
 こんなところで技の練習など普通であればするものか、と指摘され、主人は敵方を見つめたまま素直に黙り込んでしまった。
 その敵の、眼鏡の人間の方の顔を、わたしはよく覚えている。かつてわたしが、わたしとトウヤが幼い日々を過ごした家の、その向かいの大きな家にあの男は暮らしていた。トウヤの父親と何やら縁が深いらしくて、我が家にも足しげくやってきていて、わたしたちもよく遊んでもらったものだ。あのグレイシアではなかったが、バトルをしたこともある。勝ちもしたし、また無様に負けもした。
 今日の昼間、ハギ宅の二階の主の自室から覚えのある声を聞いたとき、まさかとは思ったが。階段を下り、店の方に出て目に飛び込んできたのは、随分と老けた、けれどもやはり知った顔――それよりも衝撃を受けたのは、ホールの真ん中に立ち尽くす主の、あまりにもぎこちない笑顔と、その仮面の下に見え隠れする今にも泣きだしそうな表情だったけれども。
 呆れて、情けなくって、もの悲しくて、わたしもその場に立ち尽くして。
 まだ、そんな顔をするのかと。
 また、そんな顔をさせているのかと――――。
「――あーあ、またマスターよそのポケモンにでれでれしてるや」
 ハヤテの子供口調がぼやいた言葉に、わたしは顔を上げた。
 自分たちがひっついているベルトから、その様子を詳しく窺うことはできなかった。ただ頭上には、例のグレイシアの水色の尻尾が、ぶらんぶらんと揺れて見えた。それを丁寧に抱いているトウヤが、ちらちらと可愛らしい獣の顔を覗き込みながら、アヤノの言葉に嬉しそうに首肯する姿も。
「よそのポケモンにでれでれする暇があったら、もっとおれにでれでれしてくれてもいいのにねぇ」
「ふふふ」
 ハヤテの声と、メグミのいつも通りのささやかな笑い声。主があんまり情けない面を晒しているので、ボールを揺らして抗議してみようとも思ったが、やめだ。面倒くさい。
 ボールの部屋の中央にしゃがみこんで、考える。わたしとトウヤが、ああいう風にべたべたと接しなくなったのは、果たしていつ頃だったろう。いつからわたしたちは、同じ布団で寝なくなったろう。いつからわたしたちは、一緒に湯船に浸からなくなったろう。
 そんな体のむず痒くなりそうな疑問に、言葉で答えるのは簡単だ。彼が大人になってから。わたしが進化してから。ハヤテが来て、メグミが来てから。けれどもそんな回答は、わたしを明るい場所には導かない。
 大人になってからも、けれど、息を吸うくらいに、血管が脈打つくらい当たり前のように、わたしたちは寄り添ってきた。そうしたから自然と、下手に馴れ合わなくとも、分かることはうんと増えたのだ。なのに、未だに分からない。あれの考えている事なら、顔を見なくても、声色でだって、隣に立ってるだけでだって、良い事も、嫌な事さえも、手に取るように分かってしまうのに。……分からない。
 どうしてそう、いつまでもいつまでも、その重すぎる荷物を引き摺って行くのか。

 グレイシアがぐっと首を伸ばし、トウヤに頬をすり寄せようとした。一瞬戸惑った後、わたしたちの主はそれを甘んじて(という体(てい)で、なんとみっともない顔をしていること。獣がそんなに可愛いのだろうか)受け入れいた。むしろ自分から寄って行っているようにも見える。……馬鹿らしい。ハヤテがぐるると唸り声を上げた。
「あのコムスメ、マスターにそれ以上色目使ったら噛み千切るぞ!」
 そう言って暴れているらしいハヤテだが、色目を使われている方があんなに喜んでいるのでわたし的にはよしとしよう。先程鉢合わせた時とは打って変わってリラックスしている彼の顔を眺めていると、……また、午前中のこちらに助けを求めるようなあの目が、一瞬浮かんで、消えた。
 自分の主がああいう顔をするのは、ああいう顔をさせるのは、辛くて、情けなくて、少し怖い。
 ボディタッチの有り無しが疎通の良し悪しを決定すると、わたしは到底思わない。触れあわなくたって、昔よりずっと替え難いものになっているし、何も言われなくたって、信頼されている、背中を預けてもらっていると、心底感じることもある。けれども――そう、頭では分かっているのだけど――

「――僕の、僕のポケモンも、僕より頭が良くて」
 ボールの壁の向こうのトウヤは、出し抜けに、そんなことを言った。
 心臓の、とくんと高鳴る音がした。ハヤテの喚き声もふと消えた。出し抜けに、と言って、それも男との会話の流れを汲んでいれば多分自然な発話なのだろうが――あぁ、こいつは馬鹿なんですけど、と言ってさっきまで暴れていたわたしの隣のボールをぺんと叩いて、なんだい、とハヤテが叫び、クスクスメグミが笑う。
 グレイシアが無垢な瞳で見上げている。あの、それで、と下手糞に言葉を継ぎながら、夕陽の橙の差した頬を主は子供みたいに緩めていた。
「賢くて、しっかり者なんです。僕のノクタスは、この間も、バトルの時――」
 ……あぁ。
 すっかり力が抜けたみたいに、見上げるのも億劫になって、わたしは視線を下ろす。不安定に浮ついた声が、ばらばらに揺れる花弁のように、いくつも、いくつも注いでくる。考えるのも面倒になる。そんな言葉も、全部シャットアウトしてしまいたい。……でも、もう少し聞いていたい。
 まぁたハリばっかりぃ、とハヤテのむくれっ面。ハリ、良かったね、という、メグミのふわふわした優しい声。
 何故だろう、暑いのは得意なはずなのに、体が芯からぽかぽか熱い。
(……この感情の名前を。わたしは、随分昔から、よく知っているよ)





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