*本編 3・連中の正義−1の劇中。




inside:3−1.5



「――あーあ。マスターはまたハリばっかり、ハリばっかりだよ」
 目の前で音を立てて解放されたボールを見て、ハヤテはそんなふうに呟いた。
 ボールの中から、ボールを見て。モンスターボールに超圧縮された状態で眺める世界は、いつもの様子とはまるで違う。まさに小人になった気分だ。外でなら、そこに立っている主人と彼とは、そこまで体長が違わない。ハヤテは主人を乗せて走れさえする。けれど、今視界の中に聳える人間は、もはや超巨大な建造物だ、そうでなきゃ、例えば神様か何かの域だ。普通の縮尺で見れば、もしかしたら雲を突き破っているかもしれない。そうなってくると、開き、光を放って、また閉じたその紅白の球も、自分の入れられているのと同じ大きさのはずなのに、以前やりあったタマザラシのめちゃくちゃでかいのくらいには見える。そこから出てきた緑のポケモンを下から覗くのは、ちょっと前に出くわしたとんでもないデカさのハガネールより微妙に怖い。
 まぁ、そんなことは、どうだっていい。ハヤテにとっては慣れたものだ。それはもちろんハリにとっても、今お隣のボールにいる、もう一匹の仲間にとっても。
 窓の外の太陽はもう空の天辺を行き過ぎようとしていた。が、おはよ、と低く呟くと、マスターは吸い込まれるようにふらっと傾いて脇のベッドに倒れ込んだ。ハリは頷いて、ちょこんとその場に座り込んだ。それからじっとこちらを眺めた。なんだその無表情は。朝(正しくは昼)一番に出してもらえた優越感の表れか。
 嫉妬心がうずうず燃えて、うーっと睨んではみるものの、そういえばボールの外からは、中の様子が伺えない。見えるのは中からだけだ、人間の道具にマジックミラーってやつがあるらしいけれど、イメージ的にはよく似ている。モンスターボール職人の粋な計らいか遊び心か、もしくは偶然の産物か。
 人間はボールの中に入らないから、多分見られていることは知らないだろう。あぁ、けれど、なんとなく勘付いている人間もいる。そこにいる、ハヤテのマスターなんかがそうだ。たまに、やましいことでもあるんだろうか、見られたくないことをするときは、いつも放りっぱなしのハヤテたちのボールを棚にしまったり、上から何かを被せたりするのだ。ただ、マスターも変に抜けてるところがあるというか、音は生よりちょっと遠いけど聞こえるから、何がやましいのか大体の察しはつく。逆に、見られていることに気付かないのは例えば、ミソラみたいなあんぽんたんだ。ミソラというのは、ちょっと前に仲間になった人の子で、これを説明するにあたり重要なポイントとしては主に、ハヤテにおやつをくれる生き物であるという点。最近はずっとうちにいるけど、早起きというか普通に朝には起きるので、今はもう外出している。
 それはともかくとして、つまらないボールの中から人間の部屋へと放りだされたハリは、じーっとしてこちらを見ている。さっきベッドにダイブを決めたマスターは、腹の底から滲み出すような低い低い溜め息をついた。それから動かなかった。隣でメグミは黙っている。なんだいなんだい、とハヤテは暴れた。
「いつもハリだ、そうやってハリはすぐにボールから出してもらえる」
 そういってギャーギャー喚いていると、おもむろにハリは立ち上がって、部屋の入口の方へと移動、それからそこにある本棚と壁との隙間にぬるりと入り込んで、したり顔(に見える無表情)で腰を下ろした。
「……なにしてんの?」
「ハヤテがうるさいから、できるだけ遠くに来た」
 ハリはなんでもないように言った。
 即ち、ボールの中と外とのポケモンとは、会話が可能である。これにはモンスターボールが個体を識別するためにポケモンの体にひっついている、ボールマーカーと呼ばれる機械のなせる業(わざ)なんだそうだ。極めて小さく丈夫な機械で、なんだか知らないが耳の穴に入っているらしい。それについては、職人以外にはきっと誰も詳しく知らない。遊び心というやつだ。
 ところで、外から中への声はともかく、ボールマーカーを介した中から外への声の大きさは、電波の届く範囲であれば、距離が違った所で変化はない。つまるところ、これはあまりにもしょうもない嫌がらせである。
「うわーん、ハリのばか、ばか」
「ばかっていうやつが、ばかだ」
 ちなみに、あんまりにも小さいからなのかどうなのか、ハリの喋るのはポケモンの耳には聞こえても人間の耳にはだいたいが届かない。
「じゃあ、ばかじゃない! ハリは全然ちっともばかじゃない!」
「どうも」
「わーんばかじゃないって言ったやつがばかじゃないのにー!」
「……うるさい」
 別の声が聞こえた。女の子らしいかわいい声だが、これは隣のメグミの声だ。どういう仕組みなのか、ボールに入ってる同士もボール同士が傍であれば、言葉を交わすことが可能である。これがあるから、ボールの中でもポケモンたちはぎりぎり暇に食われない。
「メグミ聞いてー、ハリがいじめるー」
「……」説明ばかりだが、もう一つ。ハリもそうだけど、メグミはそれ以上に口を聞かない。
「ねーメグミー」
「……」
「もーメグミー!」
 ちなみにこの間、マスターがあまりにも眠そうな声でどうだったろうな、と呟いて、ハリが首を傾げたけれど、意味が分からないので放っておく。
「メグミも思わない、ハリばっかりずるいって」
「ずるい……?」
「だって、メグミも外出たいでしょ、飛ぶの好きでしょ」
「……めぐみ、ボールの中、けっこう好きだから」
「嘘だ、嘘だい、こんな狭くて平らでつまんないとこ、どこがいいっていうんだよ」
「……」
「ねーどこが好きなの教えてよどこどこー!」
「ちょっと黙らんか、お前は」
 少々釘を刺されたところで、ハヤテの怒りは収まらない。
「ハリはいいよね、出してもらえるんだからさ頼まなくたって!」
「だってハヤテは物壊すから」
「壊さないよ!」
「いいや壊す」
「壊してないよね?」
「壊してた」これはメグミ。
「いつ壊したっていうの」
「いつも壊してたっていうの」
「いーわーなーいーのー!」
 地団太を踏み、尻尾を振り回し手近の壁にタックルする。何かハイテクな機能が搭載してあって、というのは今更だが、モンスターボールには少々揺られたり転がったりしたところでポケモンが酔わないように、どんな状況でも内部の水平が保たれるという仕組みがある。だから中からは感じられないが、ハヤテくらいの大きさのポケモンが力いっぱい暴れてやれば、ボールは結構揺れているものである。今だってベルトや机にぶつかって、外の世界にはコトコトと音が立っているに違いない。
「マスター起きてよ遊ぼうよーもうお昼だよお腹すいたよマスターねーマスターってばー!」
 努力の甲斐あってか、ベッドで死んでいたハヤテのマスターは、するともぞもぞと動き出した。
 やった、外に出られる、とハヤテは目を輝かせた――のもつかの間、マスターは腕を伸ばして棚から薄い物を手に取ると、こちらを振り向きもせず再び横になったのである。
「――なんだい! なんだい! マスターの思わせぶり! ねぼすけケーシィ! ねぼすけカビゴン!」
「ふふ」
 メグミがちょっと笑ったので、それはまぁそれで満足としよう。
 どすんどすんと階段をのぼる音がして、ビーダルのヴェルが部屋の中へとやってきた。こいつはハヤテたちとは違った人間が主人だからか、ボールマーカーは持ってるものの、常にボールの外にいる。ハヤテがあんなに頑張った所で見向きもしなかったのに、マスターはそれが来ると簡単に体を起こした。
「どうした?」
 マスターが聞いて、ヴェルがぶつぶつ言った。
「やれやれ、この歳になると、階段の上り下りが本当に億劫、億劫」
 隅っこで体育座りをしているハリの前を横切って、ヴェルはマスターのいるベッドの傍に座り込んだ。ややあってから、マスターは嫌そうな顔をした。そういえば、階下の方から、何やら賑やかな声が聞こえる。
「……ヴェル、いいかい」
 マスターはげんなりとして、もう一度ベッドに横倒しになった。
「今日は店を手伝う気になれない。僕はまだ寝ていたっておばさんに伝えてくれ。調子が悪そうだったとも」
「えっ、マスターは、調子が悪かったの」
「ばかか」
 きっぱりとハリに言われて、なんでさ、とハヤテは言い返した。
「ちゃんと伝えてくれたら、あとでおいしいものをやるよ」
「おいしいもの!」ハヤテが一人足踏みし、
「つべこべ言わんとさっさと降りんか」ヴェルはクールに一刀両断。
「……じゃあ、ハリが手伝う。ハリとハヤテが手伝うから……」
 あんたたちの親はなんでこういつまで経ってもガキなんだい、というヴェルの言葉に、申し訳ない、とハリのとてつもなく冷めた声。そんなやりとりをよそに、手伝い手伝い、とハヤテはますます暴れはじめた。
「もう手伝いでも添い寝でもなんでもするから出して出してー!」
 仕方ない、とヴェルが動き始めた。ヴェルの黒い前足が、マスターの足首をむんずと掴んだ。引きずり降ろさんと力を入れると、マスターもベッドのシーツを掴んで対抗した。嫌だ働きたくない、そういう類の言葉をマスターはわめいた。子供みたいにごねてるな、とハヤテにはそれがおかしかったけれど、残りの二匹が、その姿と重なるものをハヤテの出せ出せコールの中に見ていたことに、当のハヤテは気付かない。
 舌打ちしてヴェルは離れた。その隙にマスターは頭から布団を被って必死に防衛措置を取った、つもりであったらしいが、ヴェルの次に出す攻撃においてその薄っぺらな掛け布団は、もはやなんの意味合いも持つことはない。
 ヴェルは身を屈めた。床を力強く蹴った。ついさっき、階段の上り下りが辛い、と言っていた生き物とはまるで別であった。天井スレスレまで跳躍すると、おそらく通常のビーダルの3倍くらいはあろうかという大量の贅肉を携えて、ヴェルはハヤテのマスターの肩の上へと落下した。
 鈍い音と衝撃と、聞いたことのないような悲鳴が部屋じゅうを貫いた。
 ついにハヤテも騒ぐのをやめた。丸くなってぴくぴく悶えている男をよそに、ヴェルは何事もなかったかのようにベッドを降りた。階下から、ハヤテの恐れている女の人間の怒鳴り声がした。ぴくぴくしていた人は、しぶしぶと起き上がり頭を掻いた。マスターはその、『怒鳴る』攻撃に最も弱い。


 ヴェルと一緒にどたばたと部屋を出ていったマスターが脱ぎ捨てた寝間着を、立ち上がりハリは拾い抱えた。
「ねぇ、ハリー」
「ボールを開けたら、わたしが怒られる」
「マスターは、おれのこと、嫌いになっちゃったのかなぁ……」
 打って変わって、あまりにもしょんぼりした声色に、一瞬場の空気が凍った。
 ハリはゆっくりとそれを畳むと、ベッドの横にぽんと置いた。それから振り返った。じぃっとボールを眺めてくる目は、何か見定めているようだった。
「……トウヤは、ハヤテのこと、すごく好きだと思うんだけど……」
 自分からは滅多に口を聞かないメグミまでもが、慰めるような言葉を掛ける。そうかなぁ、だってぇ、とハヤテはうじうじと背中を丸めた。
「マスターは最近、おれのことばっかりいじめてくる気がする」
「いじめじゃなくて、しつけ」ハリがさくっと切り返す。
「おればっかりしつけられてる!」
「ハヤテが一番必要あるからな」
「たまにご飯くれないし……」
「皆同じだ」
「昔は部屋にも出させてくれてたのにっ」
「それ進化する前の話」
「うぅっ、でも、でもぉ……!」
 頭を抱えてぶんぶんと尻尾を振るさまは、おそらく誰からも見えないだろうが。
「もう、このままじゃおれミソラの子供になっちゃうよ!」
「なんで」ハリの声はいつもより若干刺々しく、
「だってミソラはおかしくれるし叩かないし」
「……ほんき?」メグミの声は、いつもより若干不安げでか細い。
「本気じゃないよ本気なわけないじゃん!」
 それからうーっと呻くと、ハヤテはその場にうずくまった。
「おれマスターのこと好きだもんっ怒られても叩かれてもかまってもらえるだけでなんか分かんないけどうれしいし、もっとずっと一緒にいたいのにっでもマスターが俺のこと嫌いになったら」
「トウヤはお前のこと嫌いになったりしない」
 仁王立ちのまま、すっぱりとハリは言い切った。
 半べそをかきながらハヤテは顔を上げた。ボールの向こうでは相変わらず睨みを効かせているハリが、早足にこちらへ近づいてきた。
「トウヤはお前のこと嫌いになったりしない」
「……うん、そうだね。そうだよね。おれがまず、マスターのこと信じなきゃ」
「トウヤはお前のこと嫌いになったりしない」
「うん、うん。ありがとうハリ」
「トウヤはお前のこと嫌いになったりしない」
「う、うん。もう分かったよ」
「トウヤはお前のこと嫌いになったりしない」
「わ、分かったから……」
「トウヤはお前の」「分かった! 分かったって本当に!」
 がしっとハリはハヤテのボールを掴みあげた。
 圧縮された状態から見る、地球一個分くらいの超巨大なハリの顔が、ずんずんとハヤテに迫ってくる。ハヤテは完全におののいていた。隕石みたいな月色の瞳に真っ黒のクレーターが浮かんでいて凄い重力に吸い込まれそうだ。一歩二歩とハヤテは退いた。退けど、ボールの中の空間は逃げるにはあまりにも狭すぎる。
「いいか、根拠がある。三つある」
「は、はい」
「まず、トウヤは、お前の飯用に肉の類を買ってくることが多い。わたしやメグミの分とは別にだ。肉は木の実よりうんと高い。すなわちハヤテの食費には、一番の金額がかかっている」
「……お金の問題?」
 メグミが潜めて呟いたが、ハリは意に介する様子もない。
「次に、グレンやあの女と話しているとき、トウヤはお前の話をする確率がかなり高い」
「本当!?」
「わたしの計算によると、三割くらいの確率でお前の話が出る」
 それは、高いのか? ――突っ込もうか迷ったけれど、ハヤテが小躍りしだしそうなほど喜んでいるので、メグミはそっと口を閉ざした。
「さらに」
「まだあるの!」
「トウヤはわたしたちの中でお前のことを一番怒る」
 なんだい、とハヤテがひとつ吠えた。構わずハリは続けた。
「怒られるということは、手がかかるということ」
「で、でもっ」
「お前は知らないかもしれんが、手がかかる子ほどかわいい、という言葉がある。つまりそういうことだ」
「なるほど!」
 ぽんとハヤテは手を打った。メグミはもはや何をいう気にもならず、いつものように黙って目を瞑った。ハリはボールをベルトの元の位置に直すと、すくっと立ち上がった。
「大事でない奴など、あの男が、傍に置いたりするものか。いいな。心しておけ、それ以上つまらん無駄口を利くようなら、わたしのニードルアームがお前のボールを叩き潰す」
「は、はい……」
「気になる声がするから、ちょっと降りてくる」
 そう言い残すとハリはすたすたと部屋を出ていってしまった。
 部屋はすぐに静かになった。ハリ、いいやつだなぁ、とハヤテの感慨深げな呟きと、メグミの微かな笑い声が、静かに壁に染み込んでいった。





 <月蝕 TOPへ>
  <ノベルTOPへ>