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 君が、噂のゼンくん? そう話しかけてきたのは、いかにも物腰柔らかといった雰囲気の男だった。
 ゼンは顔を上げる。四十代半ばと見えた。フレームの細い眼鏡と、人懐こい笑顔が印象的な中年男性。商店街の一角に佇んでいただけの自分をどうやって『ゼン』だと見破ったのか。訝って睨むゼンに、名前と顔写真は部隊全員に行き渡っているぞ、と男は苦笑する。それから左腕の腕章――リューエルの隊員証を示した。どうやら第七部隊の人間らしい。
 鞄にしまい込んだままだった腕章を取り付けると、ゼンは男に握手を求めた。
「失礼。確かに私がゼンです。今日からお世話になります」
「アヤノだ。よろしく頼みます。出身は、旧ホウガ」
 手を握ってきた男が挨拶と同時に滑らかに出自を告げると、ゼンは僅かに目を丸くした。アヤノと名乗った男は笑顔のままで続ける。
「話は聞いているよ。ミヅキの『いい人』なんだってね。小さい頃からの知り合いだとか」
「そこまで噂が行っているとは」
 気まずそうに肩を竦める若者の瞳を、興味深そうにアヤノは覗き込んだ。
「俺はホウガではミヅキの家の向かいに住んでいた。赤ん坊の頃からよく知っているよ。ミヅキの幼馴染なら、俺も面識があるかと思ったが。どうやら君とは初対面のようだ」
「私もそう思いますね。ホウガには何度か足を運んだことがありますが、あなたのことは記憶にない。それと、幼馴染と呼べるほどの間柄ではありません」
 そう、と微笑み、アヤノは歩き出した。ゼンも連れ立っていく。
 商店街と言え、地面がむき出しの路面は散乱する塵で随分と汚い。キブツは貧しい町だ。常に飢餓状態と隣り合わせにある人々の視線は、堂々と財布を取り出す事さえ時に憚らせる。……そこを堂々と闊歩する目の前の隊員の背中を、ゼンは静かに観察する。ともすれば研究部に居そうな品の良い『おじさん』にしか見えないが、こういった治安の場所もかなり歩き慣れているようだ。実務経験はそこそこに長いと見える。
 適当な店でお茶を二つ買ったアヤノは、片方をゼンに与えながら言った。
「『孤高の一匹狼』」
「は?」
「と、呼ばれているんだよ、君。知ってるのか?」
 アヤノはクックッと笑う。その言葉の真意を察して、髭を剃り落とした顎を撫で、ゼンもまた口の端を上げた。どうやら、見た目通りの穏やかな男、それだけではないらしい。
「ゼンくん、出身は?」
「既に情報が行っているのでは? 内部の人間ではありませんよ。子供の頃に実家を捨てて、志願入団したんです」
 へぇ、と少し驚きながら、アヤノは眼鏡を持ち上げた。
「子供の頃に実家を捨てて?」
「ええ。面白いことしたさに。一刻も早く家を出たくて、毎日うずうずしていましたよ。ほとんど女手一つで私を育てたお袋に恩義はありますが、それにしても地元はつまらなかった」
「破天荒だな。上が一目置く訳だ」
 お茶を一息飲む。キブツの荒廃した町並みに目をやりながら、そんな君が今回初めて部隊配属を承認した、と呟いた。
「孤立無援の個人活動を続けてきた君が」
「部隊配属を命じられたのも今回が初めてですよ。上が私を野放しにしていただけだ。命令に背いたことなんかない」
「そうかそうか。チーム行動もなかなか楽しいぞ」
 どうだか。内心は隠して、ゼンは頷いて返した。
「こういう機会を与えてくれたミヅキには感謝しなければなりません」
「はは、そうだな。頭が上がらんという訳だ。ミヅキの昔馴染みということは、もしかして弟の方も知ってるのか?」
 こちらを向いた眼鏡の奥。その人の良さげな瞳が、鋭く何かを窺っている。――対人用の笑顔のまま、ゼンは目を細める。的確な返答を素早く探れど、脳裏によぎる懐古心は、取り繕った平生を嘲笑うように先行していく。
「ええ。二つ下だったかな。確か名前は、トウヤ」
 眼前に、蘇る。激しく踊り狂う炎。目を見開き、竦み動けない少年。わなわなと震え、突然、泣き叫ぶように悲鳴を上げる。夢中で立ち上がり、輝かしい烈火の中へと、猛然と突き進んでいく――ゼンは頬を、緩めた。
「よく知っていますよ」





 ヴェルはきっと、その子が好きだったのだろう。昨日ブルーシートを執拗に嗅ぎまわっていた姿を思い出して、ミソラは腹の中で納得した。あの散髪セットも、錆びたはさみもすべて、死んでしまったハギの子供のためのものだったのだ。熊のような大きな体が、片足だけの小さなスニーカーへ、必死に鼻先を擦りつけている。
 相変わらずの長くて重い髪と、相変わらずおばさんと二人だけの朝食。但しトウヤは二階で寝坊しているのではなくて、どこか知らない所に行ったきりだ。テレポートできるテラを連れているからすぐに帰ると思っていたが、久しぶりの実姉との再会なら、積もる話もあるのだろう。……お姉さんの話をした時、そういう感じでもなかったけど。とにかくミソラは、ぼんやりトウヤの帰りを待つ、それ以外の選択肢を持ちえない。すなわち、トウヤがいないだけの、今までと似た毎日を送るだけ。
 食事をしながら昨日の話になって、ハギがどこからか持ってきたのがそのスニーカーだった。遺品なのだという。血痕で黒ずんだスニーカーの片方だけをココウのスラム街に残して、少年は忽然と消えてしまった。
「もう、十三年も前だよ」
 ハギの視線が、虚ろに遠い。大好きなおばさんのそんな顔を見るのは辛かった。いつものんびりしているヴェルが、まるで憑りつかれたようにせわしく匂いを探しているのも。そのスニーカーは、二人にとっての、失った日常そのものなのだ。
「今だって危ないけれど、その頃スラムはもっと治安が悪くて、とても子供が一人で出歩いていいような場所じゃなかったんだよ。……あの子馬鹿でね。家にいると、いつも『つまらない』と言って」
 春先の出来事だったのだという。
 普段通りに外出していった少年は、あの日、夜になっても戻らなかった。残された匂いを頼りに母親と獣が見つけたのは、薄汚い路地にぽつんと転がる、彼の血に濡れたスニーカー。
 殺しの事件というのは、その頃本当に後を絶たなかったのだそうだ。けれど簡単に諦められるはずもなく、どこかで生きていると信じて、ハギは手当たり次第に息子の足跡を探し続けた。……転機は、真冬に訪れた。遠方に住んでいたハギの兄が、そちらで俺の子を引き取れないか、と頼み込んできたのだ。
「……それって、」
 座り込み、ヴェルの大きな背中をゆったりと撫でながら、ハギは頷いた。
「おばちゃん、その頃にはとても疲れてしまっていてね。最初は断ったんだよ、うちの息子だって、今に帰ってくるはずだから、って。けれど、もしあの子が永遠に、この家には帰ってこないで、私は永遠にあの子を探し続けて……そんな毎日を想像してみると、とても寂しくなったわ。トウヤを引き取ることで、あの子を裏切ることになるんじゃないか、あの子の姿を重ねて、トウヤを傷つけるんじゃないかとか、色々考えたんだけどね。結局……こんなことを言うのは良くないけど、『良いタイミングなんだ』と思って」
 甥っ子が実の親元に居られなくなった、そのタイミングが。ミソラは朝食後のソーダを飲みながら、トウヤとその子の両方に、じわりと虚しさを覚えた。
「じゃあ、あの部屋は……」
 控えめに尋ねるミソラに視線をやって、ハギは柔らかく笑む。
「今、ミソラちゃんとトウヤが使っている部屋は、昔おばちゃんの子が使っていた部屋」
「その部屋を使うことに、お師匠様は、何も言わなかったんですか?」
「何も教えなかったんだよ、最初は。息子がいたことも、その部屋を使っていたことも」
 けれど、トウヤがココウにやってきてから一年に満たない頃のことだ。行くなときつく言っていたスラム街にトウヤは足を踏み入れて、結果、それを見たハギが腰を抜かすくらいの酷い怪我を負ってしまった。
「その時に全部話したんだよ。めちゃくちゃ叱りつけながら。おばちゃんがどれだけ怒ってたか、分かるかい?」
 凄んで言うハギにミソラは苦笑を返した。自分だって時折無茶なことをするから、人のことを笑える立場では、正直ない。
 いなくなった息子の話を聞きながら、トウヤは初めて、ハギの前で泣いたのだそうだ。親元を離れた寂しさにどんな慰めの言葉をかけても、涙する素振りも見せなかったのに。あれで意外と優しい子なんだよ、と笑うハギに、ミソラは小さく頷いた。それは、ミソラも知っている。
 けれど。――遺品をしまい、慌ただしく朝食の片付けを始めるハギをぬるくなったソーダを飲んで眺めながら、ミソラは思いを馳せる。トウヤはなぜ、おばさんの話に涙したのだろう。彼の短すぎた生涯を思って、その母親の痛みを思って、言いつけを守らなかった後悔の念に、苛まれて泣いたのだろうか。きっとおばさんは相当感情的になったのだろうから、それに同情することは、あったに違いない。けれど、本当に、それが理由だったのだろうか。もしそれが、僕なら――やっと築いた自分の居場所に『いるべき人』がいたのだと、涙ながらに知らされたとしたら。


『おばさん』
 顔を覆って嗚咽する叔母を、茫然と見つめる少年の目から、一筋の涙が真っ直ぐ流れ落ちる。
『おばさん、僕は』
 不意に蘇る。どうしてこんなことを、今に思い出すのだろう。舌の奥に燃え上がる苦みに耐えかねて、――トウヤは拳を握る。
 あの時、死ぬほど帰りたいと思った。自分にも父と母がいて、帰るべき家があって、いつかそれらが必ず自分を迎えに来る、そのことに何度も気持ちを走らせた。そうでもしないと、とてもじゃないが、繋ぎ止めてなんていられなかった。
 この人は何も悪くない。知っている、だから。
 思い出す、僕の、青白い頬。失意に満ちた対の瞳。



『僕は、悪い子だから、その子のかわりはできません』



 ――片方の声はアヤノのものだ。もう一人の方はイチジョウと言うらしい。ちらりと視認した姿からは、前にココウで見かけたゼブライカを操るリューエル隊員と思われた。小さな商店が所狭しと立ち並ぶ小汚い路地の一角で、二人は立ち話をしている。その軒の間の、ごく細い路地の片隅。会話が聞き取れるぎりぎりの距離から、トウヤは耳をそばだてていた。
 雑多な記憶が次々と景色に折り重なる。この薄暗さは、身を潜め、父の気配を探った物陰。この背徳は、割ってしまった母の皿をこっそり夜中に埋めた庭。この緊張感は、悪戯相手が通りかかるのを、ハリと見つめていた窓辺。全てが懐かしく、愛おしくて、取り返しようのない日々の一部だ。そんな幸福な日々を成立させるために必要だった人たちは、もういない。どれだけ待とうとも、もう迎えには来ない。全部、自分が、あっけなく取り零してしまった。
 胃の中身をぶちまけてしまいたい衝動が身をぎりぎりと絞めつけている。耳障りな心音。向こうに聞こえるのではないか。気を落ち着かせようと吐く息に唇が生気を失う。膝から力が抜けていくのを感じて、せめて何事も鳴らさないように、トウヤは静かに座り込んだ。
 アヤノは、『新たな副部隊長』の合流は来月になるのだと言った。
 つまり、今、この町に、姉はいないということだ。
(……何を、安心、しているのだろう)
 そんな自分を笑ってしまう。
 昨日から過剰に溜め込んでいたストレスが弛緩し、拡散していく。倦怠感が酷い。吐き気と息苦しさに見舞われる中、指先を動かすのも億劫な気持ちで、やっとボールの一つ目を不躾に撫でる。ごめん。会えないみたいだ。彼女は何も伝えてこない。
「しかし何なんだ、今回のミッションは」
 棘を含んだイチジョウの声がぼそりと呟く。
「動くのが若手だけならわざわざ俺達が出向く必要もなかっただろう。それも辺鄙な田舎町に」
「まぁまぁ。新入り見物のためだ」
 アヤノが宥めるように言う。じゃりじゃりと苛立って靴裏を捩じるのは、イチジョウの足か。
「どうなんだ、あの男は。いかにも信用のなさそうな素行をしている」
「実力があるのは確かなようだよ。それに、ワカミヤミヅキの『お目付け』だから、仕方ない」
(――ミヅキ)
 懐かしい響きだ。けれど忘れた日なんて一度もなかった。自分が生を受けてから二十二年の歳月に、その名前へどれくらい、多くの感情を抱いたのだろう。
 過去に吸われていく魂の行方は、もう制御が効かなかった。透き通った肌と、すらりと高い鼻と、瞬きするたびに淡く震える長い睫毛と。それらのことを、心底きれいだと、トウヤはいつも思っていた。遊びに出るとき、細くて柔らかい掌に手を引かれるたびに、この人の面影が自分に存在していることを、心から嬉しく思っていた。
 それらを回顧するたびに、避けては通れない。大蛇の如き獰猛な意識が、口を開いて、トウヤを待ちわびている。その向こうには、数えきれない思い出が、一面に広がっているのだ。並んで見上げた月の色も、夜に触れる足元の冷やかさも。握り潰したあの花の匂いも……。
 寒気と嘔吐感が襲ってくる。頭を抱えるように身を縮めながら、霧散する集中力を必死に呼び戻す。
「『お目付け』か。その女も気に食わんな」
 イチジョウは姉のことを、そう捨てるように言う。
「副長の器とはとても思えん。随分功績を上げているようだが、それもどうなんだ」
「功労者の娘だから、と言いたいのか?」
 笑うような調子で返すアヤノの声。――功労者。目を開く。景色が光を帯びる。
 トウヤには知る由もなかったのだ。三年前に死んだ親が、『功労者』なんて呼ばれているとは。
「まぁワカミヤの娘なら、その位の待遇は受けて当然だとも思えるな」
「ほう」
「母親も優秀なトレーナーだったが、父親の方は本当に素晴らしい科学者だった。ヤツがいなければ今のリューエルはなかったと言ってもいいくらいだ。その上、成果を上げても全く鼻に掛けようとしないから、慕っている人間も多くいたよ。生きていれば間違いなく研究部をリードしていたろうに、惜しかった」
 アヤノのその言葉は、まるで自分がいることを知って語ってくれているように、一瞬トウヤに錯覚させた。
(……父さん)
 唇を噛む。熱い感情が喉元を上がってくる。自分のことを褒められたような地に足のつかない嬉しさは、すぐに別の思いに塗り替わった。そんな風に言われていることを、言われるようになることを、死ぬ時父は知っていたのだろうか。あの人は、報われて死んだのだろうか。
 閉ざしがちな蓋を上げれば、情緒はいつも激流となってあの日の少年を溺れさせる。両親が死んだと聞いたときから、何度も何度も何度も、後悔ばかり巡らせてきた。あんなに望んでいた景色を。あんなに待ちわびていた父を、母を、どうしてただ、黙って待っていられたのだろう。どうして信じていられたんだ。何もしなければ、帰りたかった場所は、ある日、知らぬ間に消えてしまうのに。
 アヤノの声は悼むようだった。トウヤにとってはそれが何よりの救いだった。けれど――ああ、と返事をするもう一方の声は、卑劣な盗聴者の気持ちなど、解しているはずもない。
「あの悲惨な死に方をした研究者か」
 その言葉も、その次のアヤノの言葉も、すぐには理解ができなかった。
「あいつもまさか、実の子供に殺されるとは夢にも思っていなかったろうな」


 ――強烈な気配。殺気にも似た。アヤノを半ば突き飛ばし、イチジョウは一本先の路地へと飛び込んだ。
 両脇を建物に挟まれた、人間が一人やっと通れる程度の薄暗い細径だ。放棄された幾つかの粗大物以外には何も見つからない。その日陰道の奥に細くたなびく陽光に、砂埃が動いている。何かが立ち去ったと雄弁に語る証。
 乱暴するなよ、と突かれた肩を呑気に払うアヤノに、噛みつくような勢いでイチジョウは向いた。
「逃がした。ターゲットかもしれない」
「違うよ。なんだ、気付いてなかったのか?」
 目の前の中年は、そんなことを言いながら朗らかに笑う。イチジョウは静かに瞠目した。
 アヤノはのんびりとその路地を覗きこんだ。『彼』がいたのは、気付かれればいつでも逃げ出せる位置、一番遠くの突き当たりだ。なるほど。眼鏡の奥の瞳が、郷愁にすっと細められる。若干の迷う余裕を見せてから、ボールホルダーの六つの紅白球から二つを選んで手に取った。
 無言で説明を求めるイチジョウににやりと笑み、男はもう一度、無人の路地を見やる。
「さて、約束の手合せといこうか」







 
 
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