「ルディは、『心の雫』を知っていますか」
 時刻は三時をとうに回り、夜明けの時間が迫りつつある。
 街明かりから遠く離れ、冷たい闇の中だった。強い風がワタツミの空を駆け抜けていた。世界から忘れ去られつつあるその小さな廃墟の前で、オリベは子供と目を合わせた。
 長い金の髪も白い肌も、以前より荒れて傷んで醜くなって、それでも子供は美しかった。多くの困難にぶつかってぶつけられてなお、雪山で拾いあげたときと同じ、美しい輝きを放っていた。
「……海の向こうに伝わる昔話です。愛する者を守るために自らの命をなげうった、あるきょうだいの伝説があります」
 オリベには教壇に立っていた自負がある。溌剌と語る力は失えど、真摯に丁寧に紡ぎさえすれば、言葉はまっすぐに子供の目の奥へ吸い込まれてゆくことを知っていた。声と目、言葉、表情、この身に宿すすべてを、子供は見つめていて、その視線をオリベは意のままに利用することができる。あの小さな町の教室で、子供たちへ正しく美しいものを示してきた。彼らが行くべき道だけを輝かしく照らし続けてきた。
 生涯最後の教え子となるこの子供は、生来どの教え子よりもいっとう美しかったから、いっとう穢れなく育ててきた。
 いつだってその美しさを損なわぬよう努めてきた。
「勇敢な兄と妹でした。強い絆で繋がる彼らは、海と大地とを守りながら、仲睦まじく暮らしていました。あるとき、襲いかかった厄災から大地と民とを救うため、兄は自らを犠牲にした。……肉体は朽ち、多くのものがその死を悼んだ。ですが高尚な魂は朽ちることなく、美しい宝玉となりかわり、妹の前に現れたのです」
 青く透き通るその宝玉を、妹は肌身離さず抱き続けた。すると妹には不思議な力の庇護が宿り、見事災厄を打ち倒した。
「『心の雫』と呼ばれるその宝玉は、今でも大変強い力を持ち、彼が認める者にのみその力を貸すと言います」
 咀嚼して飲み込むための間を、数拍置く。
「ルディ。死してなお、彼の魂がなぜ力を与えるか、分かりますか」
 子供は口を引き結んで解かなかった。
 青い眼で、じっ、とオリベの目を見据えた。
「彼のことを、人々が想うからです」
 その目を、オリベは臆することなく見通した。
「身を賭して愛する者を救った彼への、弛まぬ敬愛の念こそが、宝玉を持つ者に力を与えます。力の正体は想いなのです。己が心の力なのです。ルディならば分かるでしょう。死者を想う気持ちが、自身に力を与える。そのとき確かに、死者は生者の力の源となっている。死者を想う気持ちがあるならば、『死』とは決して、終わりではないのです」
 山へ降り注いだ雨が川から海へと順に下る、ある種の当然さを以って、講釈は淀みのない流れとなる。言葉は夜空の星屑のように美しく光り、真実味を伴いながら、ひたひたと足元を満たしていく。
「神はなにも命を奪うのではない。死の先には、必ず救済があります。魂は不自由から解放され、自由に空を飛び回ることができる。そして彼らは求めれば、私たちの元へ帰って、その力を貸してくれる。だから、ルディ。死を、恐れることはありません」
 いいですか。子供の瞳に、強く念を押す。
「覚えてさえいればいいのです。あなたが覚えている限り、彼らの魂はここにあり、必ずあなたの力となる。死んだとて、想いが朽ちることはないのです。ルディが彼らのことを、覚えて、愛している限り、彼らは生き続けるのです」
 子供はどこまでも澄みわたる瞳で、父、あるいは師を見つめ続けた。
 暴虐な風が吹きつけた。海へと駆け抜けながら、長い金糸をかき混ぜた。顔の前に流れかかる金の光は、淡く繊細で頼りなく、今にも途切れて消え入りそうなのに、その奥から見据える瞳は、この夜に異様に思えるほど、爛々と輝いて、――まるで燃えているかのようにも見えた。
「嫌です」
 少年は、はっきりとそう言い切り。
 オリベは白く濁った目を丸め。
「魂になってまで貸す力なんかいりません。誰かが死ぬことを、美談になんてしたくありません。私の大切な人たちに死んでほしくありません。まして私のためになんて、絶対に死んでほしくありません」
 一言、一言が、放たれるごとに。
 炎が、昂ぶっていくのを見た。彼の幼すぎる熱気が、老成と諦念の漂う空気をすべて上昇気流に巻き込んだ。闇の水底の泥の中で心地よく揺蕩っていた世界が、瑞々しい叫びに激しく揺さぶられる。幕を剥ぐように劇的に、視界が急激に様変わりしていく。
「誰かに託すなんて無責任ですよ。覚えていられるかどうかなんて、分からないじゃないですかッ」
 唾を吐くように捲し立てる。
 たった十の子供が、これほどまでに激しく、彼を叱責したことがあっただろうか。
「先生。僕は、また忘れるかもしれない、あなたのことだって忘れるかもしれない、もし僕がまた忘れたら、それでおしまいだって言うんですか。勝手に死んどいて、僕のせいなんて、そんなのひどいじゃないですか」
 かすかに、ほんのかすかに頷きながら、オリベは潤んだ目尻を下げた。見かけより固く締めていた口の端から、静かに力が抜けていった。
 今、目の前に息衝いているものは、まさしく生命の輝きだった。生きたいという渇望だった。透き通るような蒼穹の瞳は、そこに映るあらゆるものを吸い尽くさんとするばかりに、眩い強さを湛えていた。大きく息を吸って、必死に肩を揺らして、抗おうとする子供の生き様が、彼の濁りを焼き尽くそうとしていた。
「僕のせいにしないでくださいよッ!」
 それは、まるで、『勝手に死んだ』のが、目の前のオリベを指しているかのように。
「僕が」
 少年は肩掛け鞄に手を突っ込み、そこからモンスターボールを取り出す。少年の細い右腕には、彼の唯一の戦闘力であるキャプチャ・スタイラーが嵌められている。
「僕が聞きたかったのはっ、」
 開放されたモンスターボールから、白い閃光が迸る。
「――神様を倒す方法ですよっ!!」
 『ミソラ』は顔を真っ赤にして怒鳴り。



 ギャオオオオオ、と迫力満点の咆哮が、片耳のニドクインから、力強く放たれた。



「――リナ、『波乗り』!」
 その浜で、ミソラは高らかに技を命じた。
 岬の小屋を出る前に思いつく限りの技マシンを習得させたのがタイムロスだったか。海の真っ黒も空の真っ黒も青だったことを思い出すように少しずつ光を帯びていく。随分時間が経ってしまった。トウヤはまだ生きているだろうか。
 進化してミソラより大きくなったリナは、臆せず水に飛び込んだ。ミソラはその背にしがみついた。
 巨体が躍動する。それにミソラは全体重を任せられる。なんて大きな背中! なんという頼もしさ!
 すごい速さで波を裂きリナはバタフライで上手に泳ぐ、ミソラは背の棘を抱えているが半分以上海に浸かっていて、けれど思ったほど寒くはない。頬を切る風のほうが冷たいくらいだ。行ける、と思った。あるいは興奮しすぎているかもしれない。どっちだっていい。
 心が今、燃えるように熱い。
 岸が離れていくのが、本当にあっという間だ。明かりがあんなに小さく見える。山の上から見た黒一面の虚無の中を、ミソラたちは今進んでいるのだ。でも強風にうねる海上には、プルリルやたまにブルンゲル、メノクラゲの赤い光なんかが漂っている。無の世界なんかここにはない。
 頬を焼く光が不意に差して、思わず顔を向けた。
 北に見える霊園の岬のほうで、赤い光の柱が見える。
 炎、だろうか。
「戦ってる。急ごう」
 リナは声こそ上げないが、ミソラの顔ほども大きくなった耳をブンッと振る。
 ちゃんとポケモンの勉強をしてきたから、タケヒロが餞別にくれたのが『月の石』だと、実は前から気付いていた。リナが強くなるための条件、ミソラが強くなるための鍵を、あのときちゃんと受け取っていた。受け取りはしたけれど、見ないふりをしていた。リナを進化させたあと言うことを聞かせられなかったらどうしようと、些細なことばかり気にしていた。
 恐れるな。言うことを聞かせられなくたっていい。今、戦うために、トウヤを取り戻すために、この力が要る。戦って勝たなければ大事なものを守れないと、とっくの昔に分かっているから。
 ミソラの肩に乗っているカラカラが、棍棒で指し示す。荒波の向こう。海の底。ナミはおばけだから、よく知っている。そこに何が待っているのか。そこで誰が呼んでいるのか。
「……潜って!」
 言って、胸いっぱいに息を吸い、止める。リナは頭からざぶんと海へ突っ込んだ。
 邪魔者を力尽く蹴散らしていくような無茶苦茶なフォームで、リナは海の底を目指す。
 真っ暗だった。光の届かない夜明け前の海の中は、何も見えないから、無の世界と錯覚する。上も下もない、空も底もない。けれど無我夢中でしがみつくミソラには、『ダイビング』さながらに潜水していくリナがいて、肩にはおばけがついていて、見えないけれどたくさんのクズモーやコイキングが漂っていることも知っている。息が苦しい。苦しいってことは生きている。ここは無の世界じゃない。真の暗闇ではない。死に連れていかれはしない。
(……いた!)
 『神様』は、海の底にはいなかった。水深十数メートルを漂っていた。
 さすが神様と言うだけはある。大きい。金属で縁取られた完全な円形に放射状のパーツが通っているのも、アンバランスな位置にある一つ目が、まるでコンパスのように見えるのも、あまりに生物らしくなかった。生物らしくないから、恐ろしくて、神様だなんて言われだしたのかもしれない。
 それは、超のつくほど巨大な舵輪(だりん)。
 それだけでも身が竦むほど大きいのに、舵輪から一本の鎖が伸びて海の底へ向かっている。先がどうなっているのか見えないが、先端には錨(いかり)がついている。図鑑で見たから、ミソラは知っている。
 舵輪や錨といった巨大船のパーツではなく、それに絡みついている藻屑のほうが『本体』なのだということも、勉強したからちゃんと知っている。
 恐れることはない。ゴーストったってただの海藻だ!
(『馬鹿力』!)
 憑依先があるなら掴める。鎖を鷲掴みしたリナが、錆び付いて藻の絡んだそれを引きちぎるほどの勢いで、振り回し、海上へ向かってぶん投げた。
 ものすごい勢いで海底から引き戻された錨部が、一行の横を通過して、水中とは思えぬ速さで天へ突き進む。
 鎖を握ったままのリナがぐいんと反動へ引っ張られた。それにしがみついているミソラも。そして鎖の先にある、舵輪に絡みついたダダリン本体も。
 ――錨、リナとミソラ、舵輪の順番で、ばしゃあばしゃあと海面に投げ出された。
「『火炎放射』ぁ!」
 ここぞとばかりに叫ぶ。着水間際のリナの口から、炎の奔流が怒濤の勢いで吐き出される。空中にあるダダリン本体の濡れた体がものすごい勢いで炙られ焼かれてそのまま派手な音を立てて海へ落ちた。逃がすものか!
「『渦潮』!」
 不自然な海流が発生して、渦の中にダダリンを閉じ込める。
「『ストーンエッジ』!」
 どこからともなく現れた岩が、渦の中心めがけて墜落する。
「『ドリルライナー』っ……」
 渦の回転に乗せて放たせようとした一撃の、動作に入る直前に、カラカラがひとつ鳴いて骨を振り上げた。
「来る」
 リナは波を蹴る。ミソラは右手を海へと突き出した。
「守って!」
 ――真っ暗な海中から突如現れた巨大錨の『アンカーショット』が、『守る』の防御壁に弾かれる。
 勢いを殺された鎖を、リナが掴んだ。
 生まれ持った『馬鹿力』が、もう一度、三コンマ九メートルのデカブツを海上へと引き摺り出す。
「リナ、」
 カッと開いたダダリンの赤い目が、こちらを見た。ミソラは青く光る目でその目と正面から対峙した。右腕を構え、左手で支える。照準を定め、射出スイッチを押し込む。
「――『破壊光線』ッ!!」
 かぱりと開いたリナの口から、溢れ出した光が、闇を奪い尽くしていく。
 メグミが放つのと遜色ない、力強い光、すべてを壊して突き進む光!
「神様のっ、馬鹿ああああぁ!」
 極太ビームがダダリンを貫く。ゴーストタイプのポケモンにノーマルタイプの『破壊光線』が効果がないことは織り込み済みだ、むしろそれが狙いだった。ゴーストタイプでしかも海の底に棲んでいるなら、突然強い光を浴びせられたら目が眩むはず。そして明るすぎる光は、キャプチャ・スタイラーの青白い光を隠してくれる。
 ミソラは腕を振った。巨大な舵輪と錨の周りを、みるみるうちにラインが取り囲む。
「誰も殺させない! 僕が守る! 連れていくな! 連れていくなッ!」
 『破壊光線』の余光の中で、何重にもなったミソラの思いを象った光が、ダダリンを縛り上げていく。
「……僕が殺すまでっ、絶対にっ、連れていかせてやるものか!!」



 ――絶対に連れていかせてやるものか!
 『黒い眼差し』に支配された空間で、どこからともなく襲いかかってくる無数のゴーストと戦い続ける。『騙し討ち』。『騙し討ち』。『騙し討ち』ッ! 自分がなぜ悪タイプなどに生まれたのか、ハリはようやく理解した。ただの草タイプなら耐えられなかった。ハリが悪タイプだったから、次から次へとやってくるゴーストたちへ太刀打ちできた。奴ら死に瀕した生き物が好きだ、喜んで連れていこうとする、いや、連れていってくれるならまだ平和的でいい。彼らは弱りきった生き物の魂を肉体から切り離し、それを啜って己に取り込む。要するに、今のトウヤは格好の餌なのだ。
 どれも雑魚だ。一撃で倒せる。だが妙に動きに統率がある。野良ゴースを二体同時に『エナジーボール』で退散させながら、取り囲まれた『眼差し』の外をなんとか探ろうと耳をそばだてる。
 親玉は、ゲンガーだ。ココウで一瞬相対した、リューエル第一部隊長キノシタの手持ちである個体。時折響いてくる笑い声が、ココウで聞いたそれと憎たらしいほどそっくりなのだ。
 ゲンガーという種族はあらゆるゴーストタイプの親分的存在で、特にゴースやゴーストは下っ端のように付き従う傾向がある。ワタツミみたいな場所でひと鳴きすれば、このくらいの雑魚はいくらでも集められるのだ。今相手にしているのはほぼすべてが野良のゴースで、本丸がどこかで指揮を執っているのは間違いない。だが、『黒い眼差し』に邪魔をされ位置の特定さえままならない。
 トウヤを呪ったのもあのゲンガーか。
 絶対に叩き潰してやる。出てこい、どこにいる。
 ハヤテの太い咆哮、ドラパルトの金切り声が、無数の高笑いに混じって聞こえていたが、少し前から聞こえなくなった。まだ戦っているだろうか、自分はまだ戦える、勝つまで倒れるわけにはいかない。視界は奪われ三百六十度どこからともなく現れる雑魚を蹴散らし続けるばかりで、小屋の中のトウヤとメグミがどうなっているのかも、分からないが。
 港で、振り絞るように泣いていた、あのときの主人を信じるならば。
 まだ生きている。まだ戦える。夜明けが必ず来ることを信じて、まだ、戦える!
 右手からゴース。『エナジーボール』で蹴散らす。この程度の下級なら相性最悪な草の技でも対処できる。前方からゴースト、左手、右斜め上からゴースがそれぞれ一体ずつ。前方のを『ミサイル針』で牽制し距離を取らせ『ニードルガード』で残り二体の『妖しい光』『祟り目』を防ぐ、左右発動させる『ニードルアーム』で各個撃破し、出遅れた前方のゴーストへ、『シャドーパンチ』を躱しての『騙し討ち』。
 霧散させた霊の背後から、目と口の端を釣り上げた霊が、嘲笑うように現れる。『ニードルアーム』。『騙し討ち』。
 この地獄はいつまで続くのか。
 頭に過りかけた思考を強引に振り払い、続けざま現れたゴーストへ『騙し討ち』を繰り出そうと身を滑らせて、ゴーストの目が、はっきりと、こちらを捉え続けたのを視認した。
 技が発動していない。PP切れか。
 いつもより早い。いつの間に『恨み』を食らったか。まずい、と思った瞬間に、ゴーストの目が赤く光るのを見た。
 ――『怪しい光』か、いや、……ッ!
 ガクン、と脳が揺さぶられ、臓腑が握り潰されるような衝撃を覚える。ハリは思わず膝をつく。瞬時に飛び起き追撃の『催眠術』を回避、『エナジーボール』の連撃で退散させた、が。
 食らったダメージ以上に、体の内部が嫌な鼓動を繰り返す。
 『呪い』を食らった。最悪だ。長くは持たない。
 けたたましい笑い声が、嵐のように竜巻のように頭上から幾重にも降り注ぐ。どんな策を練っても無駄だと言わんばかりの嘲笑。ダメージ以上に心が削り取られていく。駄目だ。まだだ。主人ならどう指示をする。考えろ。トウヤなら――立ち上がれもしないまま、腕を構え、襲い来るゴースどもへ『宿り木の種』をばらまこうとした刹那、

 光に眩んで。
 思わず、被り笠を下げた。

 『怪しい光』? 否。――信じられない光景に、月色の双眸は少しずつ見開き。
 そして、尽きかけたと思っていた力が。
 俄にわきあがってくる。

 ……太陽。そこにあるのは、太陽だった。
 深夜の霊園を燦々と照らす、小さな小さな太陽だった。

 夜空に浮かぶ白い光の玉は、我らが世界と息巻いていたゴースどもをいっぺんに黙らせ、そして、コソコソ隠れて嘲笑っていた親玉を影の中から引き摺り出した。
 巨大な顎に咥えたゲンガーを、ぺっ、と不味そうに地へ吐き出す。……こちらを見て、にやりと笑む。精悍なオーダイル。
 そして、ハリを守るように立ち塞がる、『日本晴れ』を披露した、小さな小さなチコリータ。
「大丈夫か!?」
 慌てて駆け寄り肩を支えた人間を、夢の中にいるような心地で、ハリは見た。ハシリイの青い夏の面影のある、三きょうだいの、真ん中の。
「ま、間に合った……! ゼンさん!」
「エト、そいつ連れて下がっとけ。こいつぁ俺たちの獲物だ」
 見覚えに、二人目の、まったく別の覚えが重なる。
 ああ、信じられない。
「――よく耐えた!」
 夜を震わせるような芯のある声。
 怒りの形相のゲンガーへ、仁王立ち、両手に握ったモンスターボールを掲げて見せる――人間にしとくにはいささか大きすぎるくらい大きい背中。
「貸しだぜ、ハリ!」
 憎らしいほど太陽の似合う戦闘狂が、よく知った顔で、よく知った声で、牙を剥くようにして笑った。
「デカいのから蹴散らせ、アブソル! ヨノワール!」
 手の中で開放されたボールから、呼名された二体が飛び出す。『重力』によって地面へ押さえつけられたゴーストを『辻斬り』で、『影討ち』で、瞬く間に薙ぎ払っていく。男は腰に二重に巻いたトレーナーベルトから、更に二つのボールを手に取る。どすんと地を揺らし降臨するのはカバルドン、そしてウォーグル。
「『地震』! 『岩雪崩』! 小物どもを一掃だ!」
「ちょっゼンさん! ここお墓ぁ!」
 ハリを手当する少年が声をひっくり返す。ちょっとばかし死体が埋まっていたところで、臨戦態勢に入った男がこの暴挙を止めようもない。
 ずどんずどんずどおん、と数え切れない量の岩が霊園へ降り注ぎ、大地は揺れに揺れ、ゴースたちと一緒に無数の墓標が犠牲になった。小屋の入り口前で伸されていたハヤテが、目を輝かせて大技を見ていた。
 技を免れたゴーストたちが一斉に襲いかかるが、鍛え上げられた手練れたちに野良ごときが敵うはずもない。個々の力と連携プレーがあっという間に敵の頭数を減らしていく。オーダイル含め五体の大型ポケモンを、完璧に統率する彼は、まさに群れのリーダーに相応しい。
 形成逆転。勝馬に従っていた野良たちは不利を悟ると一目散に逃げ出していく。残されたゲンガーは目を吊り上げ、かと思えばむくむくと大きくなりはじめた。岩の下で砕け散った霊体が吸収されていくかのようだ。
 小屋を見下ろすほどに膨らんだ親玉の醜く裂けた口の奥から、耳障りな嗤笑が轟く。
 ハッ、と笑って、男は三度モンスターボールを手に取った。青いカラーリングの球を、自信満々の様相で、いくらか手のひらで遊ばせた。
 光を破って現れる。空気を震撼させる咆哮。地獄の使者とすら表される四足の獣。ああ、戦友、と呼んでもいい。コオッと光を帯びるヘルガーの背中が、あまりにも、眩しすぎて。この胸の高揚が懐かしすぎて。
 ハリは思わず目を細めた。
「――『煉』、『獄』ッ!」
 手を突き出したボスの指示と共に、放たれた凄まじい業火が、憎き悪霊を丸呑みにする。
 天にまで届くのではないか、夜空を貫く荘厳な火柱。凄まじい熱気。凄まじい迫力。目を焼かれ、心を焼かれた。トウヤに見せてやりたかった。なあ、聞いたか。あなたがあんなに懸命に叫んでいたのが、まだ可愛らしく思えるようだ。
 地獄めいた断末魔が、痛快に、ワタツミの岬に響き渡る。





「許さない」
 漆黒から赤が飛ぶ。襲い来る炎に真正面から飛び込んでいく。業火に呑まれる。全身の皮膚をめくられるような痛みが迸っても足は止まらない。炎の先にいたバクフーンの左頬を、硬い鱗に覆われた拳が、捉える。殴りつける。
「許さない。絶対に許さない」
 微動だにしないアサギがカウンターを打ち込んでくる。強かに殴打された腹が抉れて内臓が潰れ血を吐いても、トウヤは戦うことができた。
「……許さない! 許さない!」
 体を思うがままに操れる。目を焼かれ腕をもぎ取られ足を捻じ折られても『自己再生』で何度でも再起できる。闇一面のこの空間でトウヤは無限の力を有していた。全身に溢れる力のすべてを、目の前の宿敵を滅ぼすことのみに注ぎ続けた。
「許さないっ! 許さないッ!!」
 体は羽のように軽く、鞠のように跳ね発条のように柔軟で、考え得るすべての角度から攻撃を仕掛けられる。殴っても殴ってもアサギはそこにいて、その背後に、亡霊のようにミヅキが立っている。ミヅキを殴るために振るう拳は尽くアサギを前に阻まれ、いっこうに届く気配がない。
 力の限り振るう『ドラゴンクロー』が『炎のパンチ』に相殺される。焼け付く痛みに構わず顎の下へ噴く『竜の息吹』に身を捩るアサギの左腕の一振りで額は割れ、体は弾丸の如く宙を飛び、放たれた『煉獄』の熱線に呑まれた下半身が炭になり消し飛ぶ。無限の力は無限の苦しみと同義かもしれない。咆哮と悲鳴は紙一重だった。
 何度殺されても、血走った目は真っ直ぐに敵を捉える。
 永遠のような死闘だった。
「俺が、おれがッ」
 汚物を蔑むような姉の目を見ると全身の血がマグマのように煮え滾る。
「あんたを……っ!」
 両足の裏が確かな感触で闇を掴む。蹴り上げてアサギの懐に突っ込みあの胸の真ん中に風穴を開けるイメージを鮮明に描くことができた。その向こうで自分は姉の首に手を掛けることができるだろう。身を縮める。踏ん張りをきかせる。ぎりぎりと食い縛る歯が砕けて砂を噛むような感覚がした。今にもエネルギーを解放しようとした、そのとき。
 人でないものに成り下がった体を、背後から、誰かが抱きすくめる。
「……離せッ!」
 叫んだ。もがいた。
 姿が見えないものの力は想像以上に凄まじく、拘束を振りほどくことができない。
「離せ! 離せ! タケヒロが殺されたんだぞ!」
 とても遠くにあるミヅキの目を、修羅の如く睨みつけながら、トウヤは何度も何度も叫んだ。
「ツーもハルさんもサチコも殺された! イズも、ヴェルも死んだんだ!」
 額から血が筋になって流れる。
「離せ! 離してくれ! どうして分かってくれないんだ! あいつを許しちゃいけないんだ!」
 自分の叫び声が耳の奥に反響する。
「僕だけは許すわけにはいかないんだ!!」
 背後から拘束するものが、余計力を強くする。
 それが何を言いたいのか痛いほど分かる。
 憐みが、荒みきった心に沁みる。火に焼かれるより鮮烈で鈍い痛みが走る。
「どうして」
 その場に崩れ落ちた。泣かないかわりに食い縛った歯の間から血がたくさん流れた。誰かが宥めるように、諫めるように、抱擁をきつくするごとに、行き場を失った怒りが身の中で毒々しく渦巻いた。
「どうして復讐しちゃいけないんだ。どうして許さなきゃいけないんだ。どうして、諦めなきゃいけないんだ。姉さんは僕を許さなかったじゃないか」
 罰を受けるのが未来永劫自分だけなら、それでよかった。
 けれど、あの人は、トウヤを傷つけるために、トウヤのまわりの人たちを傷つけた。無関係の人たちに手をかけ、見せしめに、トウヤの大事な人たちの名前を並べ立てた。
「僕だって、僕だって……、許せないんだ……許したくない……だって、そうじゃないと、みんなが……」
 分かっている。
 ミヅキが許さなかったから、ミソラが板挟みになって苦しんだ。トウヤがそれを許さなければ、おそらく、悲劇は繰り返される。
 十年前、この小屋で、大事な旅費を食われたヨシオは腹いせにデスカーンを痛めつけた。デスカーンはその腹いせにヨシオを殺した。憎しみの連鎖で互いを奪い合った果てに、何が残ったろう。デスカーンの心の中に、何か残ったのだろうか。いつしか何もかも消え失せて、この闇にトウヤは独りになった。恨み合いが何も生まないと言うのなら、産声をあげたこの怒りを誰が絞め殺してくれるのか。どこまで背負い続ければいい。どこで供養すればいい。
 蹲って呻く背に、誰かがそっと、手を重ねる気配がする。トウヤはそれに問いかける。
「じゃあ、タケヒロやハルさんたちは、どうして死ななきゃいけなかったんだ……」 
「……“どうして死ななきゃいけなかった”?」
 問い返される。幼い声。
 トウヤは顔を上げる。
「教えてよ、トウちゃん。俺は、“どうして死ななきゃいけなかったの”?」
 ――叔母の面影のある、不機嫌なブーピックみたいな顔をした子供が、目の前で泣きっ面を浮かべている。





 びしょ濡れの体で爆走して霊園まで戻った頃には、ほとんど朝になっていた。だから、焦土と化した霊園の様子を、ミソラははっきり見渡せた。
 一体何が起こったんだ――と考えている暇は、今はない。倒れているだけなら良い方で粉々に砕け散った墓石もあり、ミソラはそれに全く構わず、踏んだり蹴飛ばしたりして突き進む。ミソラの後ろからは、ニドクインになったリナが、墓石の残骸を更に粉砕しながらどすどす走りで追いかけてくる。
 岬の端に近づくにつれ、被害状況が酷くなる。だが、小屋はまるごと無事だった。誰かが小屋を守って戦ったとしか思えない。
 小屋の壁に、ハリがぐったりともたれかかっていた。扉の前にはハヤテ。そのそばにドラパルト。全員傷だらけ。でも、きちんと応急処置がされているし、空の治療薬が散乱している。どれだけ大雑把な人が治療したのだろう――考えるのは後だ。
 小屋の扉を、ミソラはぶち開けた。
 中にいたラティアス姿のメグミが、ぴゃっと身を竦ませる。昨日と同じ位置にデスカーン。そして、メグミの腕の中で、完全に憔悴しきったトウヤがひゅうひゅうと息を漏らしている。
「――キャプチャ・オン!」
 高らかに宣誓し、ミソラは迷わず射出スイッチを押した。
 小気味良い音と共にスタイラーから放たれる。青白い光を噴き出しながら、ディスクは床の上を掛け回る。唖然としているメグミのまわりを、二周、三周、と囲んだとき、ディスクが突然、光と共に真っ黒な煙を吐きだした。
 煙はミソラの大嫌いなオバケの笑顔を形作り、ケケケケケ! といかにもな笑い声を響かせながら、トウヤにまとわりついていく。
 ゴーストにはゴースト。アシストにだって相性がある。だから、わざわざ海中まで赴いて、この街で一番強そうなゴーストの力を借りた。――光の輪がトウヤを締め付け彼がかすかすの呻き声を振り絞る、その瞬間、その腹の下あたり、影の中から。ぴょこんっ、と何かが飛び出した。
 憑いていたのは、あんまりにも、ちっちゃなちっちゃなゴースだった。
 アシストの作り出したオバケを怖がって、ゴースは部屋中をピンポン球のように逃げ惑う。部屋の隅っこの影へ追いやられて落ち着いた瞬間、サッ、と伸びてきた真っ黒な手が、がしっ、とそれを握りこんだ。
 その手を棺桶の中にスッとしまう。
 ガゴン。
 蓋を閉め、白々とした目で、デスカーンがミソラを見やる。
「目を覚ませぇ! 死んだら許しませんからっ!」
 ひゅんひゅんとディスクが回る。リナが一緒になって吠える。二十周、二十五周! こんなに長く回し続けたことはない。だんだん目の前がぐらぐらしてくる。それでも、昨日怒鳴られた分ぜんぶ怒鳴り返しながら、ミソラはめちゃくちゃにスタイラーを振るう。
「私があなたを殺すまで、絶対に、生き延びさせてやるっ!!」
 ――きんっ、と音が鳴って、キャプチャ完了の画面が表示される。
 おわっ、た。
 のに。動かない。……メグミが覗き込み、リナが覗き込み、デスカーンが横目に見やり。トウヤはまだ動かない。ミソラはぜえはあと息を弾ませながら祈るような気持ちで見つめた。もぞり。動いた。トウヤが、顔をあげた。どことなく焦点の合わない目で、ふらふらと小屋の中を見回した。
「――でかした!」
 いつからそこにいたのだろう、デスカーンに腰掛けたヨシオが、サムズアップでミソラを讃えた。
 一瞬で頭が瞬間湯沸かし器みたいになる。でももう気力も体力もゼロだ。
「ふっ、ふざっ、」
 ぐらり。視界が揺れる。 
「ふざけんじゃ、ないですよおぉ……!」
 どたーん、とひっくり返る直前、――頬を叩かれたような顔をして、メグミの手を振りほどき「ミソラ!」とこちらへ駆け出した、トウヤの声が、聞こえた……気がした。


 ――約束の日まで、あと六日。





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