これで『友達』も解消なのだろうか。
 いつの間に、誰もいなくなっていた。リナもハヤテもどこかへ遊びにいったらしい。静けさがひりひり沁みた。ひえびえとした風が全身を詰るのが耐えがたくて、膝を抱えて、顔を埋めた。そうしてミソラはぽろぽろと泣いた。お前は自分勝手。お前なんかうんざり。怒鳴り声は胸の深くを、何度でもぐさぐさと突き刺してくる。頭のてっぺんから足の先まで、後悔でいっぱいだった。自分のやることなすことが、タケヒロをひどく傷つけた。なのに、拒絶してきた友達に何を言うにも恐ろしくて、ついに謝ることすらしなかった。何を後悔しているのか、何を反省しているのか、実際のところ、分かったフリばかりなのかもしれない。
「……あれ、もう行っちゃったか」
 女の声が聞こえてきた。ミソラは顔をあげなかった。他人を拒否し、膝を抱えてうずくまっていると、そうしていたタケヒロの孤独に、少しだけ同化できる気がする。でも、やっぱり、タケヒロがどれだけ悲しいのかなんて、本当は分かるはずもない。「分かって欲しくなんかねえんだよ」。そうだろう。こうやって同じポーズを取って、同化できたなんて考えている打算的な友達なんか、まっぴらごめんに違いない。違うよ、打算なんかじゃないよ。でも、純粋に隣で落ち込んでいてあげられなかったこの僕が、本当の友達だなんて言える?
 悲しんでいるのか、捻くれているのか。自分ですらどっちなんだか分からなくなっているミソラの上から、――その妙ちきりんな独り言は、有無もなく、突然ふりそそいできたのだった。
「まずいな、萎れてしまう……」
 変に仰々しい言葉遣い。もしかすると、ミソラの気を引くための策だったのかもしれない。
 ともかく、べしょべしょの目鼻をそのままに、視線を一本釣りされてしまった。
 黒マントの女レンジャーは、その場にいたはずのタケヒロを探しているようだった。彼女の細い手に束ねられたものを見る。白や紫の、地味で質素な、『雑草』としか呼べない花束。
 訝りを浴びているのに気がつくと、「……あー、笑ってくれるかと思ったんだけどね?」、と照れ隠しに肩を竦める。ばかなんじゃないか。とてもじゃないが的外れに見える奇策に不意を打たれて、一旦引っ込みかけていた涙が、また目の縁を決壊させた。
 慣れない環境で、疲労も堪え、携帯食料では腹も満たされず。人の気も知らない晴天の下、本当の意味で、四人バラバラの昼下がり。
「くだらないことしてないで聞いてくださいよ!」
「そりゃ、くだらないかもしれないけどさ」
「私、あんな、あんな言い方をするつもりじゃなかったんですっ」
 批判めく棘だった声色と、内容の懺悔がちぐはぐだ。八つ当たりをしてみて、ミソラはやっと気付いた。八つ当たりとは、すがるっていうことと、ほとんど同じなんだろうと。さっきのタケヒロも、きっとすがっていたんだろうと。
「元気出してなんて、軽々しく言ってしまった。最低ですよ私。無理に励まされたくないだろうなって、分かってたのに……」
 アズサが隣に腰かける。背中を撫でられると、胸の奥でへしゃげた心がどんどん水を得て膨らんで、目から鼻から流れ出ていく。なんてみじめなのだろう。彼女に優しくされるべきはタケヒロなのに、どう考えても自分ではないのに。
「これ、返します」
 右腕にはめっぱなしになっていたキャプチャ・スタイラーを、辞退のしるしに突き返した。
「気持ちを伝えられませんでした。……私、ポケモンレンジャーにはなれませんね」
 真っ赤に艶めく機械の光沢を、アズサは黙って見つめた。
 それから、ずいとミソラへと押し戻した。
「それ、意外と重くない? もうちょっと荷物持ちしててよ、新米レンジャーさん」
 なんて、おどけて見せる。彼女なりの励ましの形。
 呆れて涙も引っ込んだ。仕方ないので受けとった。異常な状況に空転していた心が地の底の底にめり込んだ今、そのツールは、ミソラの目にはあまり魅力的に映らなくなってしまっていた。『気持ちを伝える』道具。意外と重い。本当に、あなたの言うとおり。
「ポケモンレンジャーって、なんていうか、器用貧乏なのよね」
 ぐすぐす鼻を啜る細腕に赤が嵌め直されるのを見ながら、アズサはふと呟いた。
「そう思わない?」
「……器用貧乏、ですか」
「トレーナーだったら、好きなポケモンを何匹も捕まえて、その子たちとずっと一緒に暮らすでしょ。でも、レンジャーは基本的には一匹のポケモンをパートナーにして、あとはキャプチャしたポケモンと機械越しの絆を結んで、その場限りのお付き合い」
「そう言うと、ちょっと冷たい感じがしますね」
「うわべだけの関係、って感じよね。実際、私、訓練学校はトップの成績で卒業したけど、五年も通ってたったの二人しか友達ができなかった。人間同士の付き合いすら人並みに出来ないくせに、ポケモンとは機械で心を通わせるだなんて、なんだかデタラメ」
 間を置いて、右手に揺らす野花から、彼女は顔をあげた。
「でも、今は三人も友達がいる。私も少しは成長したかな」
 ――ミソラ。トウヤ。そしてタケヒロ。
 かなり年上の彼女に『友達』認定された照れくささの裏返しに、同じ地底にいるアズサの本質を、ミソラは発見する。アズサだって、そりゃ、あんな風に言われて傷ついただろう。地の底にめり込んだに違いない。けど、地底からでも、ほら、空が見えると。肩を叩き、彼女は天を指している。日が当たるなら花は咲く。ミソラを励ましながら、自分のことも、彼女は励まそうとしているのだ。
 そうだ。傷つけても、傷つけられても、僕らはまだ『友達』だ。俺たちもう友達だろって、あっちから言ってきたんだから。そう簡単に、解消してやったりするもんか。
「三人じゃないかもしれません。レジェラさん、リナ、スズちゃん、ハリ、……」
 指折り数えはじめたミソラに名を呼ばれたのを聞いたのか、向こうで跳ねまわっていたスズが空を滑るようにしてやってきた。そして、アズサの指先につままれた野花を、ばくん! と一口に平らげた。
 一拍の間の後、二人同時に噴き出した。大声で笑うのはさすがに憚られ、芋虫みたいに腹をよじりながら、必死に笑いを飲み込もうとした。そんな互いの姿を見ると、またおかしくなって仕方ない。両手で抑えた口元からぶふうと息が漏れた。それがまた衝動を増長させた。いまこの瞬間、それぞれの顔を見て笑いをこらえて、確かに二人は友達だった。
 なぜか、もうひとりの友達と笑いあっていたときのことを、ミソラは思い出していた。
 殴り合って喧嘩をした。しばらくしないうちに友達になった。歌にあわせて跳ねて踊って、ちゃっかり投げ賃の分け前を貰った。ごっこ遊びをいくらも二人で開発した。裏路地の横倒しのドラム缶に並んで腰かけ、おばさんから上手い言葉でくすめてきたソーダ水を並んで飲んだ。あの心地のよい冷たさと、炭酸の愉快で爽快な喉越し……。
 もし。もし、ミソラとタケヒロが友達になっていなければ、タケヒロはこんなことには巻き込まれなかったかもしれない。悲しい思いをせずに済んだのかもしれない。でも、タケヒロを振り回し、振り回されながらココウを走り回った半年間が、間違っていただなんて、思いたくない。
「あっちの二人は、なんの話してるんだろう」
 過ぎ去った笑いの反動にぜえぜえ息を吐きながら、アズサは赤らんだ顔で言う。
「二人で話そう、なんて、ちょっとびっくりしちゃった」
「感じ悪くないですか、あれ」
「さあ、分からないでもないけどな。男同士でしか話せないこととか、あるんだろうし」
 首を傾げかけ、はっとして、ミソラは憮然を繕った。
「……私も男なのですが」
「あら、そうでした」
 確信犯はにししと笑う。まるで十八歳の女の子みたいな、可愛らしい笑顔だった。





 みんな俺を裏切りやがって、とわめき散らして暴れていたが、一旦頭が冷えてしまえば、あれは間違いだったと分かる。友人のように振舞うグレンが実はリューエル団員だったこと。アズサが優しい顔をしていたのは仕事の一環だったこと。世話を焼いてやっていたミソラが、あっさりと手のひらを返したこと。――それらの裏切りは、揃いも揃って、ただ一人に矛先を向けているものだ。裏切られたのはタケヒロではなく、トウヤである。タケヒロは彼らのまわりにいて、欺瞞に満ちた生活に抱いていた幻想をぶち壊され、外野から勝手に怒り狂っているに過ぎなかった。
 穏便に収めようとしたことを、他人が我がことのように騒ぎ立てて、トウヤにしてみればはた迷惑な話だろう。
 言いようのない脱力感が全身をずっしりと重くしている。足を引きずるようにして砂漠をのろのろ進みながら、怒りに被さって垂れこめる憂鬱にタケヒロは心を任せていた。なにしてんだろ、俺。砂を蹴りつけて八つ当たりする力も沸かない。足元へ下がる視線のまま、瞼をおろして、何もかも放り出して寝てしまいたい。だが残念なことに、このだだっ広い岩石砂漠にありながら、どこにも逃げ出せない四人きりの牢の中に、自分たちは閉じ込められたままなのだ。
 酷い喧嘩をしたばかりなのに、なぜかツーはついてくる。砂でも食っているのだろうか、地面をくちばしでつっついている。タケヒロがその横をのそのそ過ぎると、数メートル先に飛んで降りて、またコツコツとやりながら主人の歩みを待っている。あのデカい奴と楽しくやってりゃいいじゃねえか、と嫌味のひとつでも言いたくなったが、言うことすら億劫だった。
 何度目か横を通り過ぎ、ぱっ、と懲りずにツーが飛び立つ。
 力強い羽ばたきの余波が、かさついた頬を撫でていく。
 ピジョンと言うのは、ポッポの頃に比べて、所作のひとつひとつにも重々しさを感じるものだ。ツーがピジョンに進化したあと、進化前の動きを再現できなくて、ピエロ芸をするのに少し困った。だけどもツーは猛烈に練習熱心で、タケヒロもイズを交えてたくさんの芸を練って、ものの二、三日で新しい演目を完成させた。ポッポ二匹の時とは違った新鮮なパフォーマンスは道行く人々の注目を集め、より多くの観覧料を投げさせた。進化したツーの芸当にイズは目を輝かせながらも卑屈にはならず、ポッポとしての自分の価値を一層認識していたのではないか。良いコンビネーションの三人だと、あのときは我ながら思ったものだ。
 三人は、二人になって、一人と一羽になった。あの新しい演目も、もう永遠に踊ることはない。
 イズという妹を失ってなお、ツーが気にも留めていないみたいに見えるのは、彼がその場に居合わせなかったからだとタケヒロは考えていた。炎が獣のように燃え狂って秘密基地の残骸を呑みこんでいく、あの恐ろしい光景を、ツーは見なかったから。だから「イズは死んだんだぞ」と叫んだ自分に対して、ツーは拒絶するように『吹き飛ばし』を放ったのだろう。
 無理に受け入れさせるのは、酷なことのようにも感じる。正直、自分だって、未だに信じがたいような気もしている。でも、ココウに帰ったら、あの焼け跡とその下に潰れる小鳥の姿を、嫌でも目にすることになる……
 ……岩盤を小突いていたツーが顔をあげたのと、タケヒロがそちらへ視線を投げたのが同時だった。
 まっすぐに目を結び合わせ、タケヒロはどきっとした。ツーの眼光の鋭さに、自分の甘えた奥底まで射貫かれたような動揺がした。覚悟を、気迫を、見え透けるほどに湛えた目を、ツーは主人に初めて見せた。生まれて四年経つか経たないかというその手持ちの相貌に、己よりうんと年上であるかのような雄々しい風格を、示されたような気がしたのだ。
 見誤っているのではないかという直感が、俄かにタケヒロの内に起こった。
 ツーは本当に、イズが死んだことを受け入れられずにタケヒロを『吹き飛ばし』たのか。本当に、実感が湧いていないから、落ち込んでいないように見えるのだろうか。……


 行き先を知らせないものだから随分と歩かされた。ハガネールがとぐろを巻いた岩山に、トウヤは待っていた。尾と思しき一番小さい岩の上に腰かけているが、それでもタケヒロの背丈以上はゆうにある。隣に座っているハリはこちらを見たが、何やら俯いているトウヤの方は、なかなか顔を上げなかった。
 彼の右手と、赤黒い左手の合間を繋ぐように、白いものが伸びている。包帯を巻こうとしているようだ。だが、やはり右手が器用に動かない。手の腹から甲へ回すだけでも、見ている間に三度もやり直しをした。
「あ」
 と腑抜けた声が漏れるのと同時に、包帯がぽろりと転がり落ちた。
 白い帯を吐きながらハガネールの体表を転がり、慌てて伸ばされた左手を掠め、てんてんと落下していく。包帯の行方を目で追うと、トウヤはようようタケヒロに気付いた。ツーが素早く飛んでいき、片足で包帯を鷲掴みにして、岩の上まで配達する。それを右手に乗せられた彼は、愛想の薄い口の端を「ありがとさん」と言ってほどいた。
 転がり出てしまった包帯の先をするする回収する間にも、ツーはその場を動かない。まだ報酬を期待しているかのように、じっと男を見上げている。膝の上にぐしゃぐしゃにした包帯へ困ったように項垂れるトウヤは、熱視線に気が付くと、
「……ああ、さっきの『燕返し』」
 と、先程の『技』の感想を述べはじめた。
「この短時間でよく形にしたな。だが、あのレベルじゃまだまだだ。集中するのにだいぶ時間をかけていたろう。『燕返し』は相手を翻弄するだけの素早さこそが肝要な技だ、なんでもないタイミングで咄嗟に放てるようにならないと、実践では話にならない。起動に時間がかかるぶん、もっと高威力の技に上から潰されて終わるだけだ」
 ハリものそりと頷いている。淡々とした論調だった。
「それから、『竜巻』か。風を起こす技は流石にこなれてるな。こっちは悪くなかったけど、僕がお前のトレーナーだったら、『吹き飛ばし』の方がまだ魅力を感じると思う」
 単なる敗走手段の技名を引き合いに出され、ツーは目を瞬かせる。
「これは趣味が出るところだ、グレンなんかは力で捩じ伏せるのが好きだから、迷わず『竜巻』を使わせるだろう。僕はあいつと違って、倒すよりも逃げるのを優先して考えたがる方だからな。昨日の『吹き飛ばし』なんかは、実に心強かった」
 男は一呼吸、咀嚼するだけの間を置き、
「いいかい、ツー。お前の身や、お前の主人の身を守ることを考えた時には、正面切って戦うよりも、うまく撒いて逃げた方が良い場合が、必ずある。勝負に勝つことだけが身を守る方法ではないと、ちゃんと覚えておくんだよ」
 まるで、自分に言ったのではないかという錯覚が、タケヒロの足を止めさせた。
 稽古を否定されたと感じたのか、ツーは不服そうにトウヤを睨んでいる。が、「必ず強くなる。精進しなさい」と頭をひとつ叩かれると、頷いて、また力強い羽ばたきで空へと舞いあがっていった。
 タケヒロの頭上を超え、一目散に水辺の方へと戻っていく。レジェラに続きをつけてもらうのだろう。
「あいつ、意外と人懐こいところがあるな。クールな奴だと思ってたが」
 鳥影を追っていた視線を戻すと、トウヤもツーの行方を眩しそうに見あげている。
「レジェラみたいなのに積極的に近寄ってそのうえ指導を乞うなんて、とてもじゃないが僕には出来ない。人に取り入るのが上手いな。一体誰に似たんだか」
「図々しいだろ」
「結構なことじゃないか」
 ツーの飛んでいった方向を、タケヒロはもう一度振り仰いだ。
「……強くなる……」
 男が手持ちに告げた予言を、口の中に反芻する。
 戦える力って、大事だよ。力がなきゃ、何も出来ない――いつかミソラに言われた言葉。あれから決意していたはずだった。強くなりたい。強くならなければ手が届かない。手が届かない苛立ちも、何も思い通りにならないもやもやも、強くなることできっと晴れていくはずだ。そうすれば、アホなことをするミソラやトウヤを、止められる。日常を守ることができる。だから俺も強くなるんだ、と。
 あの日胸に燃やしていて、けれどもすっかり薪を絶やしてぶすぶす燻らせていた決意を、いつの間に、ツーが体現しているのだ。
「明日の朝くらいには、キブツに到着するんだがな」
 トウヤはまた包帯との苦闘を再開していた。無表情に覗き込んでいるハリの手の形では、手伝うこともできないのかもしれない。
「キブツにも、駐在のポケモンレンジャーがいるんだ。レジェラに持たせる手紙に、お前を保護してもらうように事情を書いてもらったからな。突然連れ出してきて悪かったが、今後のことは、もう心配しなくていい。頃合いを見て、ココウに帰してもらえるように、その人に言いなさい」
 要件を伝えるのに、こちらの顔を見もしない。あくまで上の立場からものを言うような言葉尻に、少年は唇をへの字に捻じ曲げる。
「話ってそれだけか」
 あからさまに機嫌を損ねたその声に、トウヤは顔をあげ、ふと失笑を匂わせた。
「まあ、座れ」
 ぺんぺん、と自分の左隣を叩く。
 ハガネールの尾によじ登るのは、成長過渡期の身長ではそれなりに大仕事だった。タケヒロがやっとこさ脇に腰かけたときにも、トウヤはまだ手のひらに回す包帯の一周目や二周目に腐心していた。指の間に挟み込んで引っ張ろうとする白帯が、挟みきれない指の間をゆるゆると通り抜けていく。右手は微かに震えている。いつまで続けるつもりだろう。
「『ニードルガード』って技を知ってるか」
 目の前で自分がしていることになどまるで関心のなさそうな、抑揚の淡い平生の声が、唐突な話題を持ち出してくる。
「ハリが使うんだ。球形の防護壁を展開して、大概の技は防いでしまう」
「知るかよ」
「お前は見たことがなかったかな。一般的な『守る』と違うのは、その防護壁の外縁に、棘が生えてる。技を防ぐだけじゃなくて、勢い余って突っ込んできた相手が触れれば、棘でダメージを与えられる」
 突拍子もない話の中に例えや教訓を見出そうとして、タケヒロはすぐに思い至った。さっきの自分と重なるのだ。身を守るために、殻の中に閉じこもって、触れて慰めようとした相手を言葉の棘で傷つける。なるほど、卑屈で弱虫な自分には、なかなかお誂え向きではないか。
「陰気な技だな」
 自虐的に吐き捨てると、何を思ったのか、トウヤは緩く笑んで頷いた。
「実は、欠点がある」
「欠点?」
「なんだと思う」
 先程の己の醜態を思い返し、不味かったことを挙げてみる。
「……相手を傷つけること」
「馬鹿だな。それは明らかに利点だろ」
 タケヒロは思わず眉をひそめた。例え話ではないのか。
「じゃあなんなんだよ」
「失敗するんだよ」
「失敗?」
「そう。続けて使うと失敗するんだ」
 彼は頷きながら答えた。
「外したり、弾かれたりではなくて、覚えているはずの技が出せない。それも次々使うごとに、どんどん成功率が下がっていく。間に別の技を挟むと、なぜだか次は成功する。どういう理屈かは分からないが、どんなポケモンでもそうらしい。連続で同じ技を繰り返すことで動きを読まれて失敗する、という人もいるが、この考え方では説明できない点も多いんだよな。技を防ぐのに用いる特殊なエネルギーは種によらず量が一定で、時間経過により回復するのではないかという説は……」
 饒舌になりはじめた自分に気が付いたのだろう、トウヤはやや気恥ずかしそうにして、
「つまり、さっきのハリは、『ニードルガード』の失敗した隙をついて、攻撃したということだ」
 ほら、とタケヒロの向かいの隣側へ、顎で促した。
 主人越しにずいと身を乗り出した案山子草の従者が、ぺこり、と被り笠の頭を前傾させる。ハリが謝罪しているのだと、タケヒロはすぐには気付けなかった。謝られるなんて、まったく思ってもみなかったのだ。
「先にハリの機嫌を損ねたのは僕なんだ。悪く思わないでくれ」
 トウヤまで、自分なんかに詫びてくる。
 どうやって受け入れればいいのか分からず、タケヒロは狼狽するばかりだった。怒りはしても、その後始末、「ごめんなさい」の対を知らない。刃を収めるという意思は、どう伝えればよいのだったか。
「……俺は、別に……」
 別に、謝られるようなことではない。
 先に暴れだしたのは自分だ。殴られて当然のことを言った。
「……俺が弱いから……ニードルガードなんか使わなくちゃいけないんだ」
 素直な言葉は頑として動かず、捻くれた言葉は羽虫のように、どこからともなく湧き出してくる。内心で溜息をついた。また小馬鹿にしてくるか、気を悪くするだろうかとも憂いたが、すぐに返ってきたトウヤの声は、至って普段通りの、低く穏やかなものだった。
「自分を害するものに出くわしたとき、身を守ろうとするのは当然のことだ」
 慰められた――いや、先程の酷い行為を、肯定された。
 胡坐に突いた両手の元から、タケヒロは顔を上げられなかった。
 ハガネールが壁になっているのか、痛く厳しい冬の風は、その場ではなりを潜めている。寒さは感じなかった。まっすぐな日差しと照り返しで、ほの暖かくすらあった。
 誰も、何も言わない、なんの色もない時間が、それから延々と流れていった。
 口を閉ざしたタケヒロとハリとの間で、トウヤもまた口を閉ざして、じれったい失敗を飽きもせず繰り返していた。タケヒロは何度も顔色を窺った。何も言ってこない。だからといって立ち去るのも違う気がするし、向こうにいるミソラやアズサとも、顔を合わせづらいわけで。どうすることもできず、結局そこに居続けた。
 反抗的な行動をずっと繰り返してきた自分が、どうしていま、言われたとおりにこいつのところにやってきて、言われたとおりに腰を下ろして、じっと黙っていられるのか、タケヒロは考えようとした。答えは出なかった。けれどもいつの間に、倦怠感の膜に包み込まれた内心は、落ち着きを取り戻しつつあった。激しく撹拌されていた汚水の、乱すものが無くなって、にごりの降り積もっていく水底に、音もなく、ぼうと横たわっているような。
 ただ、膝を抱えなくても、顔を埋めなくても過ごしていられる、感傷的な空白が、にごりをさらうようにして、ゆっくりと通りすぎていく。
「……あー、その、だからな」
 トウヤは読めないタイミングで、思い出したように沈黙を破る。
「だから、つまりは、やたらと続けて使わないことが、肝なんだよな」
「まだその話すんのかよ」もしかして、話題に窮していたのか。
「ツーがバトルをしたがってるなら、興味くらいは持ってやるのもトレーナーの責任じゃないか。ピジョンだって訓練次第では『守る』も使えるようになる」
「今は覚えてないだろ」
「相手が覚えているかもしれない。土壇場で知識の有無は大きいぞ」
 聞きたがらないタケヒロに構わず、トウヤは勝手に続きを話した。
「連続で使わなければいい、間に別の技を挟むだけでいいんだ。その際、身を守れるような技と言うのは他にもある。ピジョンだったら多分、『羽休め』という回復技を覚えるんじゃないかな」
「ふうん」
「防いだり回復したりするだけじゃないぞ、鳥ポケモンが覚えられるナントカダンスって技には、相手の攻撃力を下げる効果がある。あとは、目潰しに使う『砂かけ』くらいなら、ツーでもすぐに習得できる」
「目潰しなんて野蛮なこと、させるもんか」
 お前はそうだったな、と、トウヤはしみじみと頷いた。ココウスタジアムでポケモンを傷つけ合わせて楽しむ連中をタケヒロが軽蔑していたことを、彼はよく知っている。
「じゃあ……、『宿り木の種』はどうた。あ、ピジョンは覚えないけど……」
 視界の向こうを傍観していたハリの目が、ぎょろりと人間二人を捉えた。
 その技なら、ハリやユキのバケッチャたちが使うのを、タケヒロも見ていた。種が相手の体に根を張って生長して、その植物体を媒介して体力を吸収するという技だ。野蛮ではない技として引き合いに出されたのが不思議なくらい、卑劣な性質の技である。
 相手を搾取する以上、傷つけることには変わりない。唾棄するタケヒロに、トウヤはまた横顔で頷き、
「だが、殺しはしない」
 と、鷹揚と続けた。
「戦闘不能には追いやっても、命までは奪わない。殺してしまうと、寄生する意味がなくなってしまう」
「……なんで?」
「生きていくのに、宿主が必要だからだ。由来になってるヤドリギという植物は、樹木の幹や枝に根を張って、そこから養分を吸いあげている。そいつが生きてくれなければ、ヤドリギも生きていられないんだ。だから、少しずつ、必要な分だけ拝借する」
 巻きの緩い包帯をまた解き、何度でもやり直しながら、トウヤは問いかける。
「お前は、それも良しとはしないか」
 顔を見ず、遠方に横たう水面の、生まれては消える光の粒を、タケヒロは虹彩に映していた。
 唇を結び、見つめる世界の真ん中から、あの大きな鳥が飛び立つ。続けざま、引っ張り上げられるような形で、小さな鳥影が追従していく。レジェラの起こす気流に吸い込まれるように、いや、自ら飛び込むようにして、ツーは逞しく羽ばたき、飛んでいく。ぼんやりと冴えない青の空、高く、一人ではとても手の届かない、うんと高くへ。
 なぜだろう、そのとき、その光景が、鼻の奥につんと沁みた。
 ぐっと眉間に皺を寄せて、少年は聞き分けのない涙をこらえた。
「俺、一人で生きていけないんだ」
「……うん」
 ともすれば聞き逃しそうな相槌を返してくる隣は、こちらへ目を向けはしない。けれど、耳は確かに傾けている。
「一人で生きてたつもりだったけど、でも、本当は寄生してきた。助けられて生きてきた。そうしてもらわなきゃいられなかった」
「うん」
「本当は分かってるんだ。分かってるんだよ、ちゃんと、俺……」
 徐に頭を下げ、声を詰めたタケヒロに、トウヤは何も言わなかった。何もしてこなかった。見なかったが、視線もくれなかったのではないかと思う。ぽん、と背中に添えらえた手は、彼ではなく、いつの間に隣にやってきていたハリの手だった。
「弱い自分がいやだ」
 みっともなく雫がこぼれないように、爪を拳に握り込む。
「強くなりたい」
「うん」
「足手まといになりたくない。みんなの助けになりたい。頼られるようになりたい」
 代わりにみっともない本音がぼろぼろとこぼれた。心の中を埋め尽くしていた膿を、ひとつずつ形にして吐き出していった。みじめで情けなくって、しょうがなかった。なのに、なんだか分からずとも、ほっとした。
 この姿を見られるなら、ミソラでもなく、アズサでもなく、やはりこいつしかいなかっただろう。追いかけても怒鳴っても自分を拒絶することのない、でも掴んで殴っても絶対に倒せない嫌味な兄貴分として、背を睨み続けてきたこいつにしか。
「……早く大人になりてえな」
 強くて、狡くて、鈍い大人に。そうなればきっと楽なのだろう。
 ツーとレジェラののびやかな掛け合いが、うっすらと風に流されてくる。照れ隠しついでにぼりぼり頭を掻く少年の横で、まったく進捗しない右手へと、男はじっと視線を落としていた。ちょっとくらいは、リアクションしろよ。「笑えよ」と吐き捨てると、「誰がお前を笑うもんか」と、一拍も置かずに声が戻る。やめろ、余計小っ恥ずかしい。でも、恥ずかしいとか、今更か。ミソラもアズサもいないのだし。
「タケヒロ」
 軽くなりかけた心に、名を呼ぶ声は、存外に真剣に差し込まれた。
 昨日まで動いていたものが動かなくなってしまったのに、飄々としたものだなと思っていた。だが、包帯を握りこもうとした右手が、意図した力量をほとんど伝達しなかったとき、重ねられた左手がまるで押し隠すようだったのを、タケヒロは見た。右手を握り潰すように筋を浮かべた、人でない色の皮膚の下には、隠し切れない怒り、苛立ちが、息を殺して、震えていた。
「……イズのこと」
 少し言い淀んでから、彼は続けた。そこからはまっすぐにタケヒロを見た。遠回しに慰めるためでも、本音を吐かせるためでもなく、呼びつけた本懐はここだったのだと、直感した。実際のところ、トウヤはやはり、どう切り出せば、どう話をすればいいのか、延々迷い続けていたのだ。
「辛い思いをさせたな」
「やめろよ」真正面から向けられた言葉を、首を振って拒絶する。今更謝られるなんて、予想だにもしなかった。「イズは、俺が……」
「違うんだ。僕がお前を巻き込まなければ、こんなことにはならなかった。お前が背負うものなんかない。僕のせいだと思いなさい」
「誰のせいって、そんなのリューエルの――」
「お前のせいだと言ってくれたから、僕も、目が覚めた」
 面と向かって、頭を下げられる。
「悪かった。お前たちにどう償えばいいのか分からない。僕にできることなら何でもする」
 普段あまり目にすることのない男の頭のてっぺんを、タケヒロは呆然として見つめた。
 喉が詰まる。それ以上の押し問答を許さないような、実直な姿勢に気圧される。「ごめんなさい」に対応する言葉を、今度こそ持ち出してくるべきなのか。だが、そのとき、ふと胸の内に、ひとつ種が生まれた。投げつければ、根を出して芽吹いて、むくむくと伸長し、蔓で宿主を縛り上げる。どこにも逃れられないように。想像してみる。こいつは、口先の言葉で慰めたところで、どうせ満足しないのだろう。自分だって、焼け爛れた翼の手前、もういいよなんて、そう易々と言ってくれてやることはできない。
 トウヤがはじめから、イズのことを話す気でいたというのなら、タケヒロだってここに到着する前から、腹に秘めていた決意があった。
「……本当に、何でもするんだな」
 トウヤが顔をあげた。
 これからタケヒロが言うことに、そのしみったれた表情を、きっと驚嘆させるに違いない。

「俺も、ヒビに連れていけ」

 暗い目を、トウヤはふわりと見開いた。
 そのたった一言へ込めた、この世界でタケヒロだけが込められる、人生を賭した覚悟のことを。
 こいつは知っている。こいつだけが、知っている。

 男は押し黙っていた。少年はぐっと膝を掴んで、彼を睨み続けていた。そのまま、また、しばらくが過ぎた。少し後ろに控え、間に挟まって沈黙を守り通してきたハリは、その『緊迫』にも近い時間の中で、主人とその子を交互に見やる。そして、ゆるりと空を見上げた。
 上空、泣かないツーが、頼もしい遠鳴きをあげている。
 門出を告げる号砲の如く、遥かな空へと響きわたる。
 ……タケヒロの大きな瞳を、少年らしい艶やかさに砂を被せた表情を、トウヤはじっと見定めた。そして、俄かに口角を上げ。
 ひとつ、潔く頷いた。
「分かった。一緒に行こう」
 タケヒロも頷き、唇に、不敵にも見える笑みを灯した。
 よし、腹は括った。景気付けに、包帯のロールを奪い取った。伸びきった帯をクルクルと手早く巻き取っていく。怪訝の視線を、貸せよ、やるから、と偉そうな語調が撥ね付けた。
「できないときは、ちゃんとできないって言えよな、お前。せっかく一緒に旅してんだから」
「旅か。なるほど、旅だと言えば聞こえがいい」
「誤魔化してんじゃねえ」
「そう怒るなよ。僕だって、できるようになりたかったんだよ」
 巻き取った包帯を、ああだこうだと指図されながら、トウヤの左手に巻きつけていく。赤銅色の左手は、人並みの温もりに満ちていた。化け物だなんて、ちゃんちゃらおかしい話だった。柄に合わない気恥ずかしさでしかめっ面を更にしかめるタケヒロを、くすぐったげな顔をして、トウヤはふくふくと見下ろしていた。
 右手の話もした。今後の経過にあまり期待していないと彼は言う。いくら動かそうと試みたところで、一向に馴染む気配がないと。不安だ、と彼が弱音を吐いたのが、何故だろう、ほんのちょっとだけ嬉しかった。
 ハガネールの尾から飛び降りる。また後でな、とトウヤは大声で呼びかけていたが、岩山からは応答がなかった。さっさと歩きはじめる男を、追いかけ、隣に並ぶ。遅れはとってやるもんか。ハリは荷を担ぎつつ、のそのそと二人についてくる。
「考えてみると、お前がヒビまで来てくれるなら、僕としても心強いな」
「え?」
「見ててくれるだろ、ミソラの面倒」
「……そこは押し付けてんじゃねえよ」
「頼られたいって言ったじゃないか。ほら、僕は、お前を頼りにしてるんだ」
 露骨な舌打ちを返す。トウヤはからからと笑った。
 元来た道、陰鬱に刻みつけてきた足跡を、二人分で上書きしていく。くだらないことを言われ、くだらないことを返しているうちに、不思議と力は漲っていった。ミソラとも、アズサとも、ちゃんと話ができるだろう。自分で選んだ旅路なのだから、尻くらい自分で拭わなければ。
 そこでふと、タケヒロは隣へと投げかけてみた。
「……お前がいなかったら、ミソラに会うことも、アズサに会うこともなかったよな」
 ミソラだけでなく、ミッションで赴任してきたアズサも、トウヤがココウに連れ込んできたようなものだ。
 トウヤは随分高い位置から、きょとんとして見下ろしてくる。二人だけではない。グレンにも、もしかしたらツーやイズにも。言って、それから、と、顔を上げる。タケヒロが言わんとしていることを、彼は測りかねているようだった。次を言うのには幾分気合が要ったので、顔を戻した。まっすぐ、視線は前へ。
「クソ親になんか会うことも、永遠になかったんだろうになあ」
 頭の後ろで腕を組み、努めて明るく言い飛ばす。
 タケヒロの虚勢を、トウヤはじっと見ていた。きっと、簡単に見え透けていただろう。だが、あえて指摘してくるようなことはなかった。やがて呆れぎみの苦笑だけ浮かべた。
「僕に人生を狂わされたな」
「だな。お前のせいだわ」
 にっ、と歯を見せて笑ってやる。心底の笑顔には程遠い。それでも、その懸命な作り笑いを見透かされているくらいの方が、泣きわめいているよりも、自分を好きでいられる気がした。


 イズ、ごめんな。すぐには迎えに行けそうにない。
 強くなって、第二秘密基地のあの場所に、必ず、お前を迎えに行くから。
 心配すんなよ、俺のこと。良い子に待っていてくれよ。
 できねえなら、都合の良いこと言うけれど、ちゃんと、見守っていてくれよ。

 頭の中に償いを浮かべて、翼を宿して、少年は願いを空へと放つ。





 
 
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