「先に、ひとつだけ確認させて」
 合流した途端、レンジャースーツを黒マントに隠した女が真っ向から男に問うた。
「ラティアスは、リューエルから盗んだの?」
 異邦の子供が、捨て子の少年が、次々に見上げる。彼らの張り詰めた視線を受け、四人の輪の中で最も背の高い男は、すぐさまに切り返した。一寸も躊躇うことなく、こう断言してみせた。
「盗んでいない。正規店で買ったボールで捕まえた、野生のポケモンだ」
 ――空は相変わらず湿気た色をしているが、どんよりと言うには程遠い。薄らぼんやりとしていても、雲の向こうに、太陽はちゃんと昇っている。北風はやや厳しいが、天候の荒れがちな冬場という点を加味すれば、絶好のお出かけ日和、もとい、脱出日和である。
 いよいよこれから、トウヤとミソラは、ココウを離れようとしている。
 タケヒロの第二秘密基地(彼が本拠地にしている場所で、唯一の屋根付きの秘密基地だが、寝転がるのがやっとの狭小住宅。冬前の雨季に屋根が崩れ、その後修復された)のある空き地、隣家の倉庫の影に、四人は身を潜めている。出支度を整えたトウヤとミソラは、チリーンのスズ、ピジョンのツーとポッポのイズ、そしてタケヒロの誘導の元、この場所まで逃げ込んだ。間もなくノクタスのハリ、ニドリーナのリナと共にアズサが合流し、今に至る。ガバイトのハヤテのボールをタケヒロから受け取り、トウヤは右腰のホルダーの二番目に引っ掛けた。三つ並んだボールの三番目には、渦中の一体――ラティアスのメグミが収まっている。
 揃って顔を合わせるのは、アズサの家で集合写真を撮った時以来になる。それほど日数も経っていないが、随分と昔のようにも思えた。その間、四人はそれぞれに、異常な時間を過ごしてきた。知らぬうちに手放してしまった平穏は、風船のように頼りなく煽られ薄らいで、虚空の彼方へ消えようとしている。だが、二度と見えなくなる前に、こうして、再び集まることができた。
 感傷に浸っている暇はない。頭上高く屋根の上では、ツーとイズが互いに身繕いする素振りをしつつ、あたりを警戒してくれている。ここに長居する訳にはいかなかった。
「ユキに情報を貰った。第一部隊員は現在八人。所持ポケモンは四十体を越える」
「隊長と副隊長を名乗る男にうちで接触した。第七部隊もココウに向かっているらしい」
「知ってるわ、第七は十二人の部隊。合流されたら流石に苦しい」
 二日よ、と、口早にアズサは続けた。
「第一、第七共に、今日明日が移動日で休日になっているはずだった。今回は特別作戦って呼ばれる突発的な低ランク設定のミッションで、その休日に無理矢理突っ込まれてるわ。明後日には第一も第七も、遠方でAランクのミッションが組まれている、このランクは早々外せるミッションじゃない。とにかく、二日、ラティアスを隠しきれれば、突破口は開ける」
「ココウの中に隠しきれるほど第一部隊は甘くないぞ」
「同意ね。『波動』が見えるポケモンを向こうが連れていたら、どこにも逃げ場はない」
 深く被ったフードが落とす影の中、鋭利に光る女の双眸は、黙り込む子供たちへそれとなく視線を配った。
「今すぐに、ココウを出ましょう。……ミソラちゃんも連れていくのね?」
 トウヤが肯定する。マフラーを巻きニット帽を被り、目立つ色の髪の毛を帽子と上着の内側へしまいこんだミソラも、はい、と力強く頷いた。
 唯一、タケヒロだけが、未だに状況を呑み込めず、かといって口を挟むこともできずに、おろおろと首を回している。
「厳しいのは百も承知だ。だが」
「詳しい話は後。今は逃げる方法を考えましょう」
「……お、俺っ、」
「お兄さん」
 話を主導するアズサが、子供が何か言いかけたことにすら気付かぬ様子で、それを遮った。
「ラティアスを、こっちに渡して」
 マントに覆われていた腕、手のひらが、すっ、と男へ差し向けられる。
 え、と疑問を呈したのはミソラだけだった。ただトウヤもまた、その瞬間にやっと勘付いた。彼女がいつも身に纏う漆黒のマントの内に、赤く瑞々しい情熱の他にも、隠されていたものがあったのだ。
 彼女が要求した三つ目のボールに無意識に右手が伸びる。ボールからは、捉えどころのない、焦りのような感情が伝わってくる。知ろうと思えば、至近距離にいる相手なら、メグミは相手の心情をある程度解することができるはずだ。
 彼女の父親のルカリオ、クオンと戦闘をした時、アズサには「己の波動を消す」特技があるという話を聞いた。波動を操るクオンにとり、すべての生物の思考の流れは手に取るように見え透いたものだ。だが、波動を隠すことが出来る自分だけは特別なのだと、彼女は言った。波動による詮索を逃れることができるのだと。
 何を知っている。何を隠している。最悪のタイミングで直面した疑念に、少しずつ鼓動が急いていく。
 得体の知れないアズサの現状は、完全に、三番目のポケモンを手放せと迫ってきたグレンの姿と重なっていた。
「……何故?」
「リューエルとレンジャーユニオンの間には、相互不可侵の不文律がある。私が所持しているポケモンには彼らは手を出せないわ」
「君を巻き込む気はないよ」
「冷静になって。あなた一人で、どうするつもり? 何ができるの?」
 男を見上げながら、高圧的に――いや、どことなく必死に、訴えかけてくる。ラティアスを渡せ、という言葉が不信感を抱かせることを、アズサも分かって言ったに違いなかった。あなた一人で、何ができる。もっともだ。ミソラを連れてリューエルの目をくらませつつココウを離れるという状況で、ポケモンレンジャーである彼女の手を借りることもトウヤは初めから想定していた。だが、彼女と手を組んで、「メグミを守る」という目的は本当に達成されるのか。
 君は、僕たちに助力して、何の得をするんだ。
 今は聞けなかった。差し伸べられた手を黙って取るか、トウヤが迷った、その一瞬の事だった。
『えー、こちらー、第七部隊です。第一部隊、応答願います』
 身内から他人の声があがって、全員が全員肩を跳ねさせた。
 ――主人たちの不審な動きを見て、鳥ポケモンたちが首を揃えて下方を覗く。地上では空気が急変していた。喧嘩したかと思えばすぐに仲直りし、凍りついたかと思えば次の瞬間にはヒートアップする、主人たちの忙しさは、まさに毎日が『竜巻』の中だ――ウェストポーチにしまいこんでいた件の小型機械をアズサが慌てて引っ張り出した。ミソラは騒ぎはじめた心臓の上を、タケヒロは両手で鼻と口を塞ぎこんで二人とも目を見開いていた。
 が、同じく目を見開いたトウヤが、アズサの手中を見て普通に大声をあげたので、残る三人はもう一度震えあがることになった。
「それ、リューエルの無線機か!」
「ちょっ――!」
 タケヒロが素早く飛び付きトウヤの口を塞ごうとするのを、ハリは呑気に目を瞬かせながら眺めている。なんだよ、と振り払おうとするトウヤに対して、ミソラとアズサはしーっしーっと息を尖らせながら人差し指を立てた。数十分ぶりに目を覚ましたトランシーバーは、応答を待ち砂嵐を吐き続けている。敵に聞こえるだろ、と小声を荒げたタケヒロに、トウヤはようやく合点がいった。
「聞こえないよ。一方通行の無線機だ。操作しないと発信できない」
「私たちが喋っても向こうには聞こえないってことですか?」
「詳しいのね」
「実家にあったのと同型だ。まあ、十年以上前と機能が変わってなければ、の話だが」
 付け加えられた一言がどっと冷や汗をかかせたが、幸いにして向こうからの反応はなさそうである。
「確か、発信するときは、このスイッチを――」
「今はいいってそれは」
 制止するタケヒロに「知ってて損はないだろ」とトウヤが返すのと同時に、再びトランシーバーが喋り始めた。
 第一部隊の応答はどことなく苛立ったような声で、第一部副隊長のウラミを名乗った。対する第七部隊の発信者は名乗りをあげなかったが、喋り方はアヤノのそれに類似している。ただ音質が悪く、アヤノの声を知っているトウヤも確証には至らなかった。
『急ぎのようなので、足の速い者と二班に分けまして。そろそろ先鋒が到着する頃かと』
『遅すぎる。これだから末端部隊は』
『酒場に向かわせればよいですかね?』
『もう酒場にはいない。ターゲットは二階の窓から逃走した』
『それはそれは……』第七側の隊員が失笑を滲ませ、電波越しにも分かるウラミの無言の怒気に、すぐに訂正を加える。『いえ、失礼』
 どうやら敵方も、一枚岩ではなさそうだ。念のため酒場にも人員を残しているが、荷造りや去り際の様子を見るにおそらく戻ってこない、というウラミの説明にも、トウヤは安堵した。今しがたはハギに迷惑がかかっているかもしれない、だがそれも長引きはしないだろう。
『急がせろ。合流次第囲い込んで一気に叩く』
『了解』
『町中は路地が狭く派手な戦闘は出来ない。ちょろまかと逃げられたら厄介だ』
 ココウは大通りを中心にして無秩序に住居が増殖した町だ、スラムには道なき道も多く、外への脱出路は無限に存在する。地の利は圧倒的にこちらにある。外周を取り囲む草原はかなり背が高く視界が悪い。向こうが結束する前にこっそり事を起こしてしまえば、脱出は十分に可能だ。状況は悪くないはずなのだが、リューエルの話を聞くほどに何故か、歯間に砂利が挟まったような違和感が、ちりちりと脳裏に滲み出してくる。
『その、逃走したターゲットと、ラティアスは、一緒にいるんでしょうね』
『当然だ』
 ――どうして、それを、断言できるんだ?
 その時口には出さなかったが、トウヤは何か、肝心なことを取り逃している気がしてならなかった。
「聞いているうちに集合されるわ。早く動きましょう」
 アズサが声を潜めて言い、皆が頷きかけた時だった。
『ターゲットは五分前よりC19ポイントに潜伏中。様子は分からないが、屋根上でポッポとピジョンが偵察している』
 四人は顔を見合わせた。
 上空では、聞こえていないらしい二羽が、目を瞬かせつつこちらを見下ろしている。
『先鋒は西側から近づかせろ。こちらは南東から西部へ追い込む。西部は農地が多く技を使いやすい、そこで挟み撃ちにする』
「お、おい……」
 みるみる血の気を引かせたタケヒロが、両腕をばたつかせて手持ち達へ合図をする。それを見、イズだけが屋根を発ちこちらへ降りてきた。ポッポが動いたぞ、と、無線機の向こうの男が言った。
 居場所がばれている。どこからか見られている。
「なんで――」『動き始めた様子ですか? こちらがココウ西に到着するより先に、西へ逃げられるかもしれませんな』
『心配は無用だ』
 動揺をそのまま口にしたタケヒロへ、ウラミの声が、すぐに答えを提示した。
『見失う事はない。発信機がついている』
「――ッ!」
 今度は誰の驚きも、声にならなかった。全員の視線が一挙に集まり、集めたトウヤが顔を強張らせ、少し遅れて状況を理解して、どすんと大きなリュックをおろした。
「また発信機かよ!」「ロッキーの時の……」「いつの間に」
 脱ぎ捨てられたコートをタケヒロがばさばさ振り回し、全身をはたきまくるトウヤの周りをミソラとアズサとポケモンたちが取り囲んで視線で舐め回している間に、通信が終了した。リューエルに触られなかった、とアズサが問うて、トウヤは思い出した。あなたが『ワカミヤ トウヤ』かと問われ、頷いた矢先に、強烈にじゃれついてきたポケモンがいたことを。
「あのクチートか……!」
 不覚を取った。圧倒されるまでの人懐っこさも、服の中にまで入ろうとしてきた執拗さも、意図があったのなら頷ける。とはいえ全身くまなくまさぐられたのでトウヤには見当がつかなかったが、あの時酒場にいたもう一人が滑空してきて、タケヒロの頭を踏んづけながら両の翼をバサッとあげた。ツーの指示どおりにトウヤがサッと両手をあげると、その右脇めがけて、ヒュッとくちばしが突っ込んだ。
 薄紅色のくちばしの先が摘まんでいる小蜘蛛ほどの機械を見止めて、彼の『鋭い目』が全員の称賛を浴びた。
 エイパムのロッキーをリューエルから逃がそうとしていたとき、ミソラもタケヒロも、発信機の存在に気付かないまま奔走していた。因縁の敵との思わぬ形での再会に、二人は一層に不快感を露わにする。
「ずるい、発信機なんて」
「でもどうやって逃げ切るんだよ、これがある限り居場所丸わかりってことだろ」
「いえ、好都合よ。利用しましょう」
 アズサが指を鳴らし、首に巻きついているチリーンが、りんりんと上機嫌な鳴き声をあげる。
「誰かに発信機をつけて逃げさせれば、攪乱できる」
「誰かって、誰が」
「野生ポケモンとか、そうね、時間稼ぎを考えるなら、捕まりづらい鳥ポケモンの方が……」
 女の言葉が、一対の褐色の瞳の中に、ぱっ、と光明を差した。
「俺がやる!」
 アズサが、トウヤが、ミソラが、ポケモンたちが、振り返る。
 ようやく話の中心に躍り出ることを叶えた少年は、頭上の従者から発信機を受け取ると、自分自身を鼓舞するように、べしんと胸に貼りつけた。
「とにかく逃げ回ればいいんだろ? それなら俺でも出来る」
「……何言ってるんだ、駄目だ」
 少し言葉を詰まらせたトウヤが、トーンを落として拒絶する。それをまるで無視して、まだ抱えていた彼のコートを、タケヒロは急いで羽織り始めた。袖の長さ、裾の長さが、少年が子供であることを厭らしいほど誇張してしまう。タケヒロが何をしようとしているのか、それが何を意味するのか、理解すればするほどに、先刻から芽吹き始めた嫌な予感が、形を伴って、トウヤの内側に蔓延していった。
 犠牲が出る。ここからの判断ミスのひとつで。
「これ着てれば、お前のフリして、連中を引きつけられるし……ちょっと背がアレだけどちゃんと見られなきゃいけるだろ」
「馬鹿言え、殺すって言ってるんだぞ」
「ココウの裏路地は俺の庭だ、誰にも捕まるもんか」
「お前まで巻き込む訳にはいかない」
「巻き込むって、あのなあ俺はっ……、だって、姉ちゃんやミソラは……俺は、俺だってッ」
「タケヒロ」
 二人の平行線を、ミソラの一声が両断した。
 トウヤに噛みつこうとしたタケヒロの火照りが、ミソラに目を合わせたとき、冷水に頭を叩きつけられたように、一気に色を変えて消却した。その時タケヒロは怖気づいたような顔さえした。
 一連の出来事を越えた友人の立ち姿、仕草、声には、気圧されるほどの凄味があった。
「僕たち、ロッキーを連れて逃げてた時、逃げられなかったよね。僕たちは何も出来なかったし、結局ロッキーは捕まったよね」
 らしからぬ淡々とした語り口が迫ってくる。ミソラの足元で、リナが片耳を縮こめる。戦える力って、大事だよ。力がなきゃ、何も出来ない。ミソラが昔言ったことを、タケヒロは思い出さざるをえなかった。
 ロッキーを助けることはできなかった。姉ちゃんが窮地に立たされた時、自分は口だけで、何も出来なかった。勝ってミソラを止めると言って、タケヒロは無残に負けた。しかも戦ったのはツーとイズだった。姉ちゃんを救い、ミソラを負かしたのは、トウヤのポケモンであり、トウヤ自身だった。ミソラが豹変して、トウヤを殺すと言い出して、タケヒロはミソラを殴って、ぶん殴り返され、みっともなく泣きながらアズサに縋った。グレンはタケヒロの言葉を全く意に介さず、蠅を払うようにあしらって、町を出ていった。
 俺には、何もできない。
 ミソラはそれを知っていた。力がないくせに、碌に鍛えることもせず、なんとか縋りつこうとしている自分と、覚悟の度合いが違うのだと、まざまざと、見せつけられた気がした。弟分だと思っていたミソラに。
「……足手まといは、僕だけで十分だよ」
 足手まといだと、断じられた。
 ……悔しい。鼻の奥がじんと痛んだ。自分が長らく認められず、やっと受け入れて、向き合って、出来ることをしようと思っているのに。いつの間に一歩先に立ったような顔をしたミソラに、ずっと見透かしていたような顔で、そんなことを言われるのが。
 その悔しさが、一旦沈みかけたタケヒロにまた火を点けた。
「発信機を見つけたのはツーだ、俺のポケモンだ。この機械を見つけてきたのも、」
 トランシーバーを強引に奪い取り、ミソラの前に見せつける。タケちゃん、と咎めるようにアズサが声をあげたが、タケヒロは止まらなかった。
「俺だ。これは俺のもんだ。俺は足手まといなんかじゃない。何も出来なくなんかない」
「タケヒロが足手まといだから言ってるんじゃないんだ」
 トウヤが焦ったように声を張り、
「足手まといだよ、僕らがいたら、迷惑なんだよ、僕らのせいで皆が危険な目に遭うんだよ!」
 被せるように、ミソラが畳み掛ける。
 ミソラには確信があった。非力な自分の存在は、時にトウヤを危険に晒す。彼ひとりの方がうんと安全に旅程を進められただろう場面にも、何度も遭遇してきた。自分が足手まといであることを、嫌と言うほど思い知ってきた。だがミソラのそんな思いが今のタケヒロに伝わるはずもなく、またタケヒロの切実な思いも、今のミソラに、理解できるはずがなかった。――今まで散々、ミソラのことや、トウヤのことや、アズサのことに首を突っ込んで、大好きなこの日々を守るために、彼なりに一生懸命頑張って、なんとかしようとしてきたのに。それが崩れ落ちて、本当はもう嫌で、逃げ出したくて仕方ないのに、逃げられなくて、必死に踏ん張って、今だって自分に出来ることを見つけて、戦おうとしているのに。俺の奮闘になんか見向きもしないで、またお前らは、勝手に変わってしまおうとする。置いていこうとする。俺を蚊帳の外にして。
 俺が弱いから。俺には力がないから。
「……俺が、俺が……ッ」
 握り締めた拳を震わせ、唇を歪ませたタケヒロは、まるで同情するかのようにも見える彼らの視線に反発した。
「今まで、どんな思いで、お前たちのこと……!」
 トランシーバーと発信機を持ったまま、秘密基地へと駆けていく。扉代わりの仕切り布の中へタケヒロが転がり込んでいくとき、頭の上のツーが慌てて羽ばたいて逃れ、トウヤの肩へと止まり木を移した。イズが布の傍に降り、せわしく鳴き声をかけた。タケヒロ、と、ミソラが叫んだ。時間がないわ、と基地の中にも聞こえる声で、アズサが言った。
 斜めのトタンの屋根の下で、ガタゴトと音がした。タケヒロはなかなか出てこない。トランシーバーの沈黙が不気味だった。連中はこの場所が分かっている。
 トウヤはひどく思いつめたような顔で、仕切り布の奥を見つめたあと、ボールの二つ目を手に取った。
 軽い破裂音、閃光と共に放たれたハヤテに、ミソラもアズサも目を瞠った。
 この選択が正しいのかなんて、誰にも分かる訳がなかった。
「ハヤテ、タケヒロを頼む。いいか、僕のいないところで『逆鱗』は使うな。お前が混乱したらタケヒロじゃ手をつけられない」
 泥汚れの酷いナップサックを荷物で膨らませたタケヒロがそれを背負いながら飛び出してくる。姿勢を下げたハヤテの背に、コートを翻しつつ身軽に飛び乗った。イズがハヤテの頭に止まり、横へ飛翔してきたツーを、タケヒロはトウヤの方へ突き返す。
「ツーの『吹き飛ばし』はお前らにも助けになるはずだ。ツー、頼むぜ!」
「もし捕まったら、何も知らない関係ないって、言うんだぞ、絶対だ」
「捕まるかよ、馬鹿にすんな」
「タケちゃん、いい、北の方角、死閃の爆心の方向に、私の友人がいるの」
 まったく聞き覚えのない情報が出てくる。だが、他に頼れる要素もなかった。
「クオンと戦う前の日に、一晩匿ってもらったわ。日暮れを待って、北で合流しましょう」
「北に行けばいいんだな。分かった!」
 だぶついたコートの内側から、よく日に焼けた細腕が振り上げられた。それを合図にハヤテが駆け出した。
 瞬く間に遠のいた背中が、角を曲がり、見えなくなる。
 騒々しさの主格が消え、不安の靄が、急激に濃度を増していく。息苦しい。誰も払拭できなかった。タケヒロの行ってしまった方向を見つめながら、ミソラがぽつりと言った。
「あのルカリオと戦ったとき、今みたいに、皆で集まって」
 トウヤとアズサが、やや気まずい視線を合わせる。ミソラの言おうとしていることは、二人とも、痛く実感しつつある所だった。
「作戦を立てて、そうしたら何とかなる気がして。……今は、一緒にいるのに、心がバラバラっていうか……皆、自分のことを考えてますよね」





 俺は、一体、何をしているのだろう。
『――ターゲット、B18地点から、北東に進行中。第一部隊二班は、E22地点より北方へ移動し――』
 コートのポケットに突っ込んだトランシーバーがしきりに何かを喋っているが、リューエルの定めた座標の意味などタケヒロに知る由もない。裏路地なら逃げ切れると言ったが、どこから襲い掛かってくるか、どんな姿をしているのかも分からない敵に対して、地の利などそこまで役にも立たなかった。幸いにして、こちらを追いかけているリューエル団員とは、まだ鉢合わせていない。だがそれも時間の問題と思われた。がむしゃらに逃げ続けても埒があかない。西へ東へと走り続けるうちにある建物が目に留まった。タケヒロはハヤテをそこへ向かわせた。
 乱暴に揺れる背にしがみつきながら、自分の気持ちを知っている誰かがさっきの会話を見ていたら、腹を抱えて笑うだろうと、そればかりを思っていた。
 今、どう考えても、逃げるチャンスだった。自分の思い通りにならない、もう手に入らない、元から実在したのすらかも分からない幻想でタケヒロを苦しめる連中と、手を切るチャンスだったのだ。もうお前たちにはウンザリだと、付きあいきれないと思っているなら、お前は戦力外だと言われた時に、はいそうですかと身を引けばよかった。何を意地になってしがみついて、危険に身を突っ込んで、自ら苦しみに行っているのだろうか。馬鹿だと思う。本当に馬鹿だと思う、自分のことを。本音に逆行する滑稽なピエロ。あんな奴ら、ほっといて、ミソラと出会う前の元の生活に、ツーとイズと三人きりで生きていたあの頃の生活に、戻ればよかったんだ。長い夢でも見たんだろうって、夢から覚めればよかったんだ、そうすればよかったんだ。
 なのに。
 どうして、必死になってしまえるのだろう。
 ミソラに馬鹿にされたような先程の言葉が、発信機のひっついた胸を、未だに絞めあげていた。鼻水を啜りながら、ぐっと眉間に力を入れて、タケヒロは前を見据え続けた。
 日が沈むまで、逃げきったら、皆、俺のことを認めるだろうか。
 この発信機を抱えて、あとどのくらい走り続ければいいのだろうか。俺でも役に立てるだろうか。あいつらが逃げ切るために。あいつら、逃げ切れるんだろうか。逃げ切ったあと、どうするんだろうか。どうなるんだろうか、あいつらも、俺も。一体こうやって走り続けて、その先に、どんなゴールが待ってるんだろうか。一緒にいれるんだろうか。幸せになれるんだろうか。相反する思いでぐちゃぐちゃになっていく脳内で、確からしいものを探す。ある初夏の夕暮れ、リューエル団員の手の中で、力無くぶらんと項垂れていたエイパムを思った。怖かった。自分がああなることも、例えば、トウヤがああなることも。あのときは力が及ばなかった。ロッキーは帰ってこなかった。失ったものは、戻ってこない。だから、守りたい。
 守りたい。
 だが本当に守りたい、守るべき、その正体が、なんなのか、まだタケヒロには分からない。
 トタン屋根の間を駆け抜けた青竜が、首をあげる。円形の建物が目の前に現れる。ココウスタジアム。ここなら、大量に人がいて、大量にポケモンもいる。観客席の人混みに紛れていれば、誰が発信機をつけているのかなんて分かるまい。もしリューエルがポケモンを出して暴れようものなら、他のトレーナーのポケモンたちも暴れ出して大混乱になる。夕暮れまでこの建物に潜んで、皆が出ていくときに誰かに発信機を移し替えて、隙を見て北を目指せばいいのだ。いかにもトウヤが身を寄せそうな場所でもあり、うってつけに思えた。
 受付入口付近に不審な人影はない。タケヒロはハヤテを降り、それを背に従えながらココウスタジアムの扉をくぐった。
 ――正直に言って、何かあっても、トウヤのポケモンを連れているから大丈夫、という慢心が、頭のどこかにはあったのだ。
 とりあえず観客席にあがろう。スタンドにあがる右手の階段を目指そうとして、女番に呼び止められる。入場料を払わなければならないことを思い出して、タケヒロは渋々受付に戻った。
「そいつぁ、トウヤのガバイトじゃねえか。何してんだ、ピエロの坊主」
 そうだ、選手として出場登録をしたらいい。そしたら観客席だけじゃなくて、屋内のトレーナー控室にも忍び込める。ミソラがダクトの中を這い回った話も聞いたことがある、そこに隠れるのもありだ。
 試合がしたいんだけど、と女番に声をかけるタケヒロの左横から、ハヤテも顔を覗かせる。その頭にはイズ。それぞれの顔をひととおり見てから、女番は怪訝として、タケヒロの後ろを指さした。


「そのバクフーンも、お前のポケモンか?」


 身体が浮いた。
 足が地を離れた。
 ……驚いて、声が出ず、力も入らなかった。頭を鷲掴みにされ、持ち上げられたのだと言うことすら、すぐには分からなかった。一瞬のことだったのかもしれないが、すごく長い時間、ぶらんと宙に浮いていた気がした。ゆっくりと、視界が横に流れた。背後から、頭を掴み上げた何者かが、タケヒロの顔がこちらを向くように、手首を回転させつつあった。巨大な、浅黄色の毛をもつ腹が、半分ほど視界の中に現れたとき、左側から右側へと、石ころみたいに、タケヒロの身体は吹き飛ばされた。
 背後からタケヒロを捕まえたバクフーンの横っ腹へ、ハヤテがタックルを入れた。
 受付付近、一部始終を見ていた各所の人々から、次々に悲鳴があがった。二度三度跳ねながら床を転がった少年の元へハヤテは素早く滑り込み体を抱え、床を蹴り、階段口へ飛び込んだ。何段飛ばしとも数えられない跳躍で暗い階段をのぼり踊り出たスタンドには、満席の半分くらいの観衆がフィールドへ野次を飛ばしていた。タケヒロを抱えたまま、観客の合間を、ハヤテは一心に駆け抜けた。
 獣が、無言で、無表情で、猛然と彼らを追尾した。
 まだ、タケヒロには、まったくもって、何が起こっているのか分からなかった。行われている試合に対する歓声なのか、突如の乱入に対する悲鳴なのか判別のつかない怒号の渦の中で、身体が浮き上がって、かと思えば物凄い勢いで落ちていって、そして放り投げられて地面の上をごろごろと転がったのを、ただただ感じただけだった。気付けばフィールドのほぼ中央に投げ捨てられていたタケヒロの目は、そこで取っ組み合っていたグライガーとサンドパンが、取っ組み合ったまま呆然として、タケヒロの後ろを見つめているのを、やっとこさ静止した景色として映した。
 タケヒロが背後へ顔を向けたのは、あの浅黄色の腹をした巨大な獣が、フィールドに伸されたハヤテの頭を――自分がそうされたのと同じように――掴み上げて、スタジアムフィールドの分厚いコンクリートの内壁に、殴りつけた瞬間だった。
 臓腑を揺さぶるような鈍い音がした。
 建造以来、あらゆるマッチングの試合を経て、頑丈を保ち続けていたコンクリート壁が、ハヤテの頭を中心に一部砕け罅入ったのを、タケヒロは見た。相手の剛腕を掴もうとしていたハヤテの腕が、急に電池を抜かれたみたいに、ぶらんと垂れた。獣が握りを弛めると、重力のままに首をしならせながら、青い竜が崩れ落ちた。びたんと頭を地に打って全身を小さく跳ねさせて止まった。その上にぱらぱらとコンクリート片が降った。
 熱気に満たされてたフィールドが、スタンドが、あっという間に静かになった。
 動かぬ竜を見下ろしていた獣が、ゆらりと、フィールド中央を振り向いた。地面に腕を突いて上半身を起こして、口をあけて、息をするのも忘れて、意味の分からない光景に魅入っているタケヒロは、そこでその大きな獣と、初めて目を合わせた。
 炎のような、血のような、真っ赤な、真っ赤な目と、目を合わせた。
「……――ッ、」
 ぞくりと、今更の恐怖がかけあがった。
「吹き飛ばせ!」
 静まり返ったフィールドに甲高い声が木霊した。あまりにもちっぽけな一羽のポッポが、果敢にも前へ出て、大きく翼を打った。何者も耐えられないはずの突風がバクフーンに襲い掛かった。
 技を真正面に受けながら、灼眼は、微動だにせず、特に感想も持たないまま、全く同じ位置で、同じ体勢で、タケヒロを見つめ続けていた。
 ココウではそれほど高レベルのポケモンと出くわす機会がないことと、今までの運の良さもあったかもしれない。遥かに実力のかけ離れたポケモンに『吹き飛ばし』が効かないことがあることを、タケヒロは知らなかった。だが、今まで一度も失敗したことのなかった技が通用しないという状況は、子供一人絶望させるには十分すぎた。
 暴風の中を、一歩、一歩と、バクフーンが迫り、懸命に翼を振るい続けるイズを右手で掴んで、振り上げ、振り下ろした。
 聞いたこともない奇声をごく短く発して、タケヒロの足元へ、イズが叩きつけられた。
 今度こそ、観衆が異常さを悟った。ココウスタジアムを狂った悲鳴の嵐が襲った。試合をしていたトレーナー達がポケモンを戻し逃げ出すと、それを皮切りにスタンドもすぐに混乱に陥った。翼が妙な方向へ曲がっている友人を、タケヒロは掻き抱いた。イズは苦悶の表情で目を閉じぴくりとも動かなかった。顔をあげる。こちらに迫ろうとしていたバクフーンは、今は視線を上方に逸らし、一刻も早くスタンドを離れようと階段口へ殺到している人間たちを、不思議そうな顔で眺めている。
 その時、砂埃をあげながら、少年の横へ滑り込んでくる者がいた。
 ハヤテだった。タケヒロは息を呑んだ。目を剥き、牙を剥き出し、その口の端からボタボタ鮮血を垂れ流しているハヤテは、全身をがたがたと震わせつつ、バクフーンへ威嚇の唸り声をあげていた。そうしながら、姿勢を下げた。乗れと言わんばかりに。逃げる気だ。当たり前だった。状況を見失っているのは、タケヒロだけだった。
 タケヒロは無我夢中で飛び乗って、イズごと、ハヤテの首筋をしっかと抱きしめた。
 殆んど助走もなく、青竜は跳躍した。自慢の脚力はフィールドから一足で観客席を捉え、ほうぼうから上がる絶叫の渦を突き抜け、最後にスタンド上段を蹴り、スタジアムを脱出した。数メートルの高さから地表へ難なく着地し、そこで口内に溜まった血を吐いた。半分放心したタケヒロへ逞しく声をかけ、元来た道を走り始めた。




 バクフーンのアサギは、ココウスタジアムフィールドの真ん中から、跳び去っていく竜と人間の背中をじっと見つめた。


 ――直後、その首筋から、轟音を立てて爆炎が上がった。





 
 
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