『ともかく、そのラティアスは盗品だ。殺してでも、取り返せ!』

「こっ殺――ッ!?」
 タケヒロが思わず声をあげ、アズサとミソラが一斉に飛びついて口を抑えた。
 息を止めた。三人はひっつきあったまま、摺り足にトランシーバーから遠ざかっていく。幸いなことにタケヒロの声について向こうから特に言及はなく、少しもしないうちに通信を終えた。真っ黒な小型機械が、しかめっ面で黙り込む。遠巻きにそいつを覗きこんだあと、三人は何度も視線を打ち合わせた。バレなかったか。大丈夫そう。もういい? いいかも。もう少し待った方がいいのでは、いや流石にいいでしょう。声はしない。ノイズも消えた。喋ってみてよ。誰か、ほら。……二つの目線が、お喋りな一人を捉える。
「……こ、こ……」
 恐る恐る、ノックして確かめるように『こ』を漏らしたタケヒロが応答がないことを確かめた後、――青褪めた顔が、語調と共にみるみるヒートアップしはじめた。
「殺すって……言ったよな……」
「言った……」
「今、殺すって言ったよな……!?」
「言った……!」
 『ラティアス』という言葉にも覚えがないのに、それをトウヤが盗んでいて、だから、殺されると言うのである。ミソラにとってもタケヒロにとっても意味が分からず、意味が分からないからこそ、分かりやすい一語のインパクトが強烈に思考を埋め尽くした。殺される。殺されるって。アズサが一人後ろを向いて頭を抱えていたのだが、パニックに陥る子供たちはそんなことには気付かなかった。
「どういうことタケヒロ、なんでころ、っていうかラティアスって何?」
「こっちが聞きてえよなんなんだよラティアスって」
「あの人何を盗んだの」
「分かんねえよあいつに聞けよ」
「人のせいにしないでよっ」
「いやいや俺は悪くねえだろ」
「だってタケヒロが持ってきたんじゃん!」
「じゃあグレンに聞いてくれよ!」
「待って、待って、落ち着いて、落ち着きましょう」
 瞬く間に沸騰した応酬がなぜか喧嘩腰になる。明らかに自分も落ち着いていないアズサがなんとか二人を仲裁した。
 机の上に一つ置いてあるモンスターボールが、猛烈な振動音を立てている。ハヤテはタケヒロをこの家まで連れてきた後、ボールの中に戻されたばかりだ。
「もしかして、アズサさんなら分かりますか。今の話」
 はっとしてミソラが問うと、少し躊躇ってから、アズサは逆に問うてきた。
「うちに遊びに来る前は、ミソラちゃんお兄さんと一緒だったのよね。お兄さんの手持ちの三番目の子が今どこにいるか、分かる?」
「メグミですか」
 どうしてそんなことを聞くのか、と言い返す気は、アズサの顔を見上げて失せた。ミソラが困らせなくたって既に彼女は困り果てていた。額に手を当て、眉間に皺を寄せ、視線を泳がせて、何か考え込んでいる。こちらまで感染するほど色濃い困惑の表情は、ミソラと同じ人を案じるからこそに違いなかった。
 あの人と一緒にいるはずだし、ハリならともかく、メグミを一人で散歩させるようなことは今までなかったし考えづらい、とミソラは答えた。あの人と一緒にいるはず、と言ったあたりで、女は頷いて踵を返し、黒色のマントを手に取った。
「その子が『ラティアス』。無線機で会話していたのはリューエルよ。多分まだ酒場に居る」
「酒場に」
「どうやらメグミちゃんを奪おうとしているみたいね」
 エイパム絡みの苦い記憶を蘇らせる二人を置いて、マントを素早く羽織り、ホルダーに収納されていたキャプチャ・スタイラーを左前腕に装着する。部屋の隅に転がっていたチリーンをボールに吸い込み、それをボールホルダーへ引っ掛けた。
「お兄さんに伝えてくるわ」
「いや、ちょっ、待てって、説明しろって!」
 混乱気味に声を張り上げるタケヒロに、アズサはもどかしく振り向いた。
「殺すって言ってるのよ? 話なんかしてる場合じゃ――」
「だっておかしいだろ、なんでリューエルが奪ったりするんだよ、リューエルに捕まえられるのって悪いことしたポケモンなんだろ、ロッキーみたいに盗みとか……それとも、盗品って、あのオニドリル」
 隣のミソラまでもが、あ、と声を上げた。
「メグミ、本当は、あの人の手持ちじゃないってことですか……?」
 彼への『信用』に関わる無垢な疑問が、奥まで一気に突き刺さる。
 痛いところを指摘された。子供くらい軽くいなせるはずなのに、アズサは怯んでしまった。
 慈善団体を謳うリューエルは、実務部の任務内容を事前に公表している。またレンジャー側の人間が潜伏していることもあり、実務部各隊の行動はレンジャーユニオンに筒抜け状態だ。実際、初夏に第七部隊がやってきた時にも、ココウの駐在隊員であるアズサの元には事前に情報が届いていた。ミッションでなくたって、リューエルが付近を通過するという情報があれば必ず本部から連絡が入る。だが、今回の話は、ここまで完全に意表を突かれた。そもそも『殺す』という表現も、リューエルが通常のミッションで使用することはないはずだ。
 明らかに、相手の行動は普通ではない。何が起こっているのか、どう考えていいのか、まるで分からない。盗んだなんて、そんなはずはない、と、嘘でも答えて安心させた方がいい。だがアズサも混乱しており、そこまでの気遣いに至れなかった。
「とにかく……二人はここで待ってて。すぐに連れてくるから……」
 手を掛けたドアノブが、ひとりでに回った。
 外開きの扉が勝手に開いた。
 ぶわと突風が吹きこんでくる。ノブを掴んだまま引っ張られたアズサは短い悲鳴を上げた。タケヒロは立ち竦み、ミソラは驚いて横の友人に飛びついた。マントが翻り制服の赤が晒され、曲がりなりにも訓練され尽くした肉体が反射でバックステップを踏み、子供たちを庇う。素早くチリーンのボールを取ったアズサは、眼前の敵方を見て、柔らかな栗色の目を瞠った。
 戸を引き開けた何者かは、立ち塞がっていた。反抗は敵わなかった。有無を言わさぬ剛腕が、女の細身ごと、強引に室内へ押し入った。
 大きな音を立てて戸が閉まる。
 タケヒロも、ミソラも、声を出せなかった。思いがけない来訪者は無言の威圧を放っていた。唖然と口を開いていたアズサは、その目――静謐に光る、草色の被り傘の下の、月の瞳と、暫し見つめ合ってから。
 不安げな色が、掻き消える。氷の棘のような緊迫を、俄かに全身へ張り巡らせた。
「外に、いるのね」
 ノクタスのハリが、いつもの笑った形のまま、こくりと頷く。足元にいるニドリーナのリナが、同時にがくがくと頷いた。こちらは完全に顔全体を引き攣らせている。
「ハリ、リナ!」「い、いるって」
「リューエルよね。入るところを見られてた? 何人くらいいるか分かる?」
「だから何でこの家まで監視されてんだよ、姉ちゃんも悪いことしたってことか!?」
 誰にでもなく叫んだタケヒロに、大きい声出さないで、とアズサが釘を刺した。
 どうなってんだよ、どいつもこいつも。頭を抱えて机に伏したタケヒロが存外に弱った声色で言う。ミソラの胸も、訳の分からない不安と混乱で埋め尽くされ、鼓動のひとつごとにそれらがぐしゃぐしゃに掻き混ぜられているような心地がした。トウヤが命を狙われている。彼はメグミを盗んだのかもしれない。今まさに、この家はリューエルに囲まれている。知っているんだろうに、アズサは教えちゃくれない。――ああ、殺す殺すと言っておいて、物騒なことに、自分はこれっぽちも慣れていないのだ、笑えることに。どうなってんだよ、と耳を塞いで蹲りたい気持ちは、ミソラにも痛いほど分かった。それでも。
「どうなってるも何も、今は、」
 タケヒロが、アズサが、ハリが、リナが、振り向いた。
 振り向いてくれる人がいることが、心強いと思えた。ヒガメで事が起きてから、今日の朝まで、実質的に、ミソラは一人だったのだ。自分の中の、見てはいけないものを見つめていると、どんどん周りを拒絶して、孤独になる。でも本当は、僕の周りには、まだ懲りずに人がいる。結束しているとは言い難い、けれど。皆、考えていることは根本的には同じはずだ。
「とにかく、とにかく……助けないと!」
 


「――じゃっ、帰ろっかー! 俺は秘密基地に、お前はハギさんちに帰るんだよなー!」
 一生懸命で分かりやすくてとことんまで真っ直ぐなのは、間違いなくタケヒロの良さだ。皆タケヒロのそういうところが好きなのだし、それを否定したくはない。だからこその演技の下手さが致命傷に至らないことを、今は祈るばかりである。
 お邪魔しました、とミソラが会釈して振り向くと、先に歩いていくタケヒロは、背中からして不自然だった。肩がガッツリ上がっている。手足が左右同時に出ている。首だけは、ポッポが歩くのより振り回して、辺りを窺いまくっている。ハリだけでなく手持ちのイズでさえ呆れかえる始末だ、これはばれるのではないだろうか……ミソラもそれとなく視線を動かして探るが、不審な姿は見えない。ハリが見たリューエル団員はどこに潜んでいるのだろう。
「しかし、なんだろうなーそれー」
 首だけ振り返った半笑いのタケヒロが冬なのにダラダラ汗をかいていて、ミソラは状況も忘れて噴き出しそうになってしまった。
「レンジャーの姉ちゃんー、その紙袋をー、トウヤに渡せって言ってたよなー」
 完全にあがりきった純朴が、大声で『設定』を説明する。確かに、小声で話していては意味がない。周囲に潜む団員の気を引くことが、ミソラたちの『ミッション』だからだ。――が、気を引くための嘘だとばれたら、もっと意味がない。なるべくタケヒロに喋らせぬようミソラも口を開いた。が、喉がからからに枯れていた。自分もあがっているらしい。
「中を見ちゃダメって言ってたね! なんだろう、そう言われると気になっちゃう」
「なんかー、怪しいものがー、入ってたりしてなー!」
 怪しいもの、の部分を強調して、タケヒロがやけくそ気味に叫んだ。
 無意識に忙しない足取りで、二人はアズサ宅を遠ざかっていく。何人引きつけられただろうか。今頃アズサはレンジャーユニオンと連絡を取っているはずで、終われば家を出なければならない。その時に監視の目はできるだけ少ない方がいい。自分たちの責任の大きさにどくどく胸を高鳴らせながら、ゴソゴソ音を立てる紙袋を、ミソラはひっしと抱きしめる。
 自分で気付いていないだけでミソラも固い表情をしているのだが、ミソラの足元で、全く同じような顔をしているポケモンがいる。ニドリーナのリナである。
 前方を歩いていたハリが、ごく自然に合図をした。水色の皮膚を一層青くしていたようなリナは、ビクッと片耳を跳ねさせてから、意を決して振り返った。
 ポケモンとはいえ、分かる。リナもまた相当にわざとらしい鳴き声をあげながら、元来た方へと駆け出していく。
「あ、ちょっと、リナ!」
 渾身の驚いた演技をするミソラの横で、ごく自然に溜め息をついたハリが、ごく自然な足取りでリナの足跡を追いかけていく。さすがはハリだ、バトルだけでなく、演技までこなしてみせるとは――羨望の眼差しを向けるミソラを、頭にとまったイズが慌て気味に小突いた。そうだった、すっかり台詞を忘れている。
「もうー、リナー、ハリー、遊びにいくのはいいけど、夕飯までには帰ってくるんだよー?」
 口に手を当て叫ぶ。なんだか、タケヒロみたいな演技になってしまった。……ともかく、あの二匹がアズサ宅周辺に残ったリューエル団員をなんとか誘導して、隙を見てアズサが家を離れる。万一こちらが襲われるようなことがあれば、ボールからハヤテを繰り出して応戦する。作戦は完璧だ。いや、完璧とはまるで言い難い、が、とりあえず、そう思い込んでおかなければ怖すぎる。
 大通りに到着した。じゃーまたなーとぎこぎこ手を振りながら、タケヒロが北側へ背中を向ける。イズがそれについていった。
 うまく笑えなかったし、うまく手も振れなかった。またねもうまく出ていかなかった。喉はいよいよ乾き切って、舌の根が喉に貼り付いている。監視がタケヒロについていくことはないだろうとアズサは言っていた。目立つ容姿のミソラがハギ家の住人であることは、おそらく周知されている。ハヤテがポケットにいるとはいえ、この先、引き連れてきたはずの不気味な視線は、すべてミソラに集まるのだ。
 大きく深呼吸してから、南の方角へと大通りを下り始めた。
 一瞬閉じた瞼の裏に、怖かったものを思い浮かべる。リューエルの男に摘ままれてダラリと垂れ下がっていたエイパム。目の前で巨大な火を噴いたバクーダ。ハヤテに乗せられてヒガメを出た後、荒野の真ん中で、血塗れで横たわっていたトウヤ。
 太陽の金色をした睫毛の間に、澄んだ蒼穹を開いた。あの人が死んでしまう恐怖に比べれば、このくらいは、どうってことはない。
 死なせてたまるか。僕があなたを殺すまで、絶対に生き延びさせてやる。





 十二年――いや、もう、殆んど十三年。これは、トウヤがホウガを離れてから経過した年数であり、姉の顔を最後に見てから経てきた時間の長さでもあり、また、毎日欠かさず姉の顔を思い描いたあまりにも膨大な日数でもある。姉のことを考えた、その数を数えろと言う方が馬鹿馬鹿しい。トウヤの強い望郷の念は、両親や家に向けられるものでもありながら、実態は姉の面影に支配されていたと言って過言ではなかった。目を覚ます時、飯を食う時、ポケモンの世話をする時、バトルをする時、風呂に入る時、眠る時。ホウガのあの家で、姉と共にそうしていた日々のことを、逐一蘇らせ、重ね合わせる。まるで一緒に大きくなったかのような錯覚がしていた時期もあった。だって、こんなに離れ離れになっていたって、トウヤは手に取るように思い出せる。つやつやと光って、夜空より深い真っ黒の、月影に濡れた長い髪だ。温度にほうと蕩けそうな、肌触りの良い柔らかな頬だ。滑らかで、絡まりそうなほど細いのに、うんと頼もしくも感じられた、白くてあったかい手のひらだ。自分と同じ形をした、吸い込まれたくなるような目だ、あれらは少しずつ、自分の身体が大人になるごと、頭の中で、理想通りに、一緒に大人になっていく。――それが、十云年越しに、今日、現実に、ここに、やってくると言うのである。
 実感がない。実感なんか、顔を見るまで、彼に沸いてくるはずもなかった。
 ある日偶然に町中で出くわす妄想を、それこそ星の数ほど繰り広げた。ココウをぶらついている時、また旅に出た時なんかは特に、これが捗る。あの店の角の、あの通りから、ふらっと現れたら。目が合ったら。開口一言何を言おう。どんな話が出来るだろう。シミュレーションに抜かりはない。だが本当に、本当の本当にこれから顔を合わせるのだと言われると、そんな都合のいい空想は何の役にも立ちそうにない。だからといって、頭の中が真っ白という訳でもない。自分で自分を奇妙に思ってしまえるほど、冷静を保ち続けている。
 『今じゃない』――何故だろう、本気で何故だか分からない、心の底から、そう思えるのだ。
「ミヅキちゃんが来るのかい」
「姉さんか。懐かしいですね」
「懐かしいって、あんた……」
 自分と姉の間にある軋轢を知っている叔母の方が、はるかに気を揉んでいる。ココウに連れてこられてこの方、ハギはトウヤの前でその名を口にさえしてこなかったのだ。顔色を悪くまでしてこちらを窺うハギを見るほど、トウヤはいよいよ、これは演技でもなんでもなく、緊張を落ち着けつつあった。妙な暗示でも掛かっているのではないか。そうじゃなければ、人と言うのは、袋小路に追い詰められると、ここまで無になれるものか? ハギの動揺が、まるで知らない家の噂話でも聞かされているかのような、完膚なきまでの他人事に思える。
 正直に言って、今の状況は、かなり不味い。
 リューエル第一部隊の二人組、部隊長のキノシタと副隊長のウラミと名乗る男たちは、未だ酒場に居座っていた。居座っているだけではない。便所に行くと言えば場所を知りたいと言ってついてきて、自室に上がると言えば部屋が見たいと言ってついてこようとする(さすがに遠慮願った)殊勝な監視員っぷりだ。彼らの暇潰しを求められ、トウヤは酒場のカウンターにほぼ軟禁状態である。第七部隊の到着までトウヤをここに留めて、人員が増えたところで標的の『ラティアス』を炙り出し、確実に強奪しようという魂胆か。ハリもハヤテもなかなか戻らず、トウヤには打てる策がない。
「ミヅキさんね、この秋から第七部隊の副隊長なんですよ」
「そりゃあ……偉くなったんだね。私は叔母なんだけれど、殆んど会ったことがなくて」
「歴代最年少、それも初の女性からの抜擢ということでね、我々の間でもかなり話題になりまして。トウヤくんから見ても、ミヅキさんはやはり子供の頃から優秀で?」
「強かったですね。バトルも強いし、腕っ節も、口も強くて、僕はいつも半泣きにさせられて」
 投げやりなリップサービスに、下品な笑い声があがる。想像がつくなあ、と、ウラミが言った。知らない癖にと、心の中で吐き捨てた。ヒガメの宿で、彼らが姉を不快な言葉で噂して嘲っていたことを、トウヤは知っている。姉に関しては彼らは配属部隊も遠く、社内報で顔を知っているだけで、想像がつくだけの情報など持っていないはずだ。
 憧れの人を貶されて、あの時、自分は激昂していた。結果、引き際を見誤り、メグミを危険な目に晒し、こんな状況にまでなった。反省すれど後悔すれど、十二年来、どの時点のトウヤに聞かせても、どのみち怒っていただろうと思う。障子を蹴破って殴り込まなかっただけ、あの日の自分はまだ耐えた方だ。……なんて、今、俯瞰出来ている自分が、不思議でならない。
 姉に対する執着は、一体全体、どこへ消えてしまったのだろう。会えたらどうしよう、どうなってしまうだろうと、意味のない期待や不安でいつも胸をいっぱいにしていたのに。その瞬間が目の前に訪れかけているのに、感動も、焦りすら、それほど湧いてこないのだ。
 あらゆる事象が体を駆け抜けていった後で感覚がおかしくなっているのか、僕はすっかり狂っているのか、あるいは、十二年間、ずっと狂い続けてきたのか。考えてみれば、肉親とはいえ慕っていた姉とはいえ、同じ人物のことを、十二年も、毎日毎日、思い続けてきたなんて、狂気の沙汰としか言いようがない。
 姉が来ることについて気になるのは、自分よりミソラのことである。
 もし本当にこの酒場にやってくるなら、当然ミソラとは顔を合わせることになる。二人が出くわした時、何が起こるのかは、正直言って、これっぽっちも想像がつかない。事態が好転するのかそれともまっしぐらに墜落するか、制御できるとは思えなかった。自分を含めて三人で話し合えるなら、それはまたとない機会なのかもしれないが、正直、正直に言って、今は――
「強い、強いですよ、ミヅキさんは。実務部の幹部からも、一目置かれている」
 ――まったくもって、本当に、それどころではないのである。
 本当は。本当は、会えるなら、話をしたい。したいに決まっている。『許さない』とあなたが泣いていたと、ミソラが思い出したこと。まだ、許してくれないのかと。どうすれば許してくれるのか、一体あとどのくらい、どれだけ、罰を受けたなら、僕はあなたに許されるのかと。なあ、もう、終わりにしよう。なんの関係も無いこんな子供を、間に挟んで苦しめるのは、もうやめにしよう。そしたら、積もる話をしようよ。十二年間、どこで何をしていたのか。どんな思いで過ごしてきたのか。聞かせてほしい。たくさん聞いて、知ってほしい。父さんと母さんは、どうして死んでしまったんだ。二人の墓はどこにある。直接聞いて教えてもらって、そして、言うんだ。一緒に墓参りに行こう、って。
 ――叶わない、叶うはずがない。少なくとも今じゃない。トウヤがそんなことをしている間に、ボールホルダーの三つ目からメグミは消えてしまうだろう。
 ああ、せっかくすぐそこまで迫っているかもしれないのに。お前たちさえいなければ、話が出来たかもしれないのに。無意識に睨みつけそうになる。そこでニヤついている二人組が鬱陶しくて仕方なかった。
「十歳の時に、ホウガを出てココウに来られたと聞きましたがね」
「僕ですか? ええ、まあ」
「一体何故?」
 とりあえずメグミを、どこか安全な場所へ避難させる。それが最優先事項で、他のことは全て後回しにするべきだ。間の悪さを呪いたくなる。ミソラが来てからこの方だって、秋口くらいまでは呑気に暮らしてきたはずだ。肝心なことばかり、どうしてこうも立て続いてしまうのか。
 トウヤがホウガを出ざるをえなかった理由など、彼らは知っているに違いなかった。時間稼ぎか、そうでなければ、精神攻撃のつもりだろうか。どうだってよかった。態度に出さないようにだけ、とにかく慎重に気を遣った。
「……色々ありまして」
「あまり詮索するんじゃないよ、趣味が悪いね」
 不審に長居する連中を怪しんでいるのか、ハギの対応は見たことがないほど素っ気ない。
「お二人さん、第七部隊さんが来るまで、ずっとここで待ってるつもりかい?」
「奥さん。まあそう仰らずに。いや、しかし、惜しいな。ミヅキさんの弟、そしてキョウコさんの御子息とくれば……」
 キノシタの視線が、椅子の縁にとまって優雅に身繕いをする、ごくありふれたピジョンへと向けられる。
「相当の腕前でしょうになあ」
「バトルの才は、残念ながら父親から継いでるんです」
「本当に?」
 詮索の目がすうと細められる。比較的愛想の良いウラミとは違い、第一部隊の隊長とあって、キノシタは細身だが人相の険しい男だった。ポケモンを挟んだバトルフィールドで睨まれれば、遠巻きにでも怖気づくだろう。だが、今は、どこを突っつき回されてもやはり、空恐ろしいまでの、凪だった。
「この田舎のスタジアムで、お山の大将にすらなれない程度の凡人です、僕は」
「ああ、それは嘘ですよ。ねえ、キノシタさん」
「実はうちの隊員で、最近あなたをヒガメで見かけたという者がおりましてね」
 蛇が巻きつくような声色を、トウヤは軽薄に笑い飛ばした。
「ヒガメか。行きましたが、行っただけですよ。闘技場で、向こうの三軍か四軍相手に、ええと何勝したかな。四勝くらいは出来たんだったか……」
「トウヤくん。実は、私らそこで、宿にね、盗人に入られたんですよ」
 トウヤは顔色を変えなかったが、何も知らないハギの方が、目つきに不快さを露わにする。彼らは言外に、「あなたを疑っている」と顔に貼り付けているような、露骨な厭味ったらしさを滲ませていた。
「特に被害がなかったもんで、こちらも深追いしなかったんですがね? 繁華街をポケモンに乗って逃走したって話で。騒ぎになったんじゃないかと思うんですが……」
「ご存知ない?」
「さあ……」
 小さく首を傾げ、ヒガメも物騒なんですね、と苦笑を浮かべる。二人が互いの視線を交えた。
「ここだけの話なんですが、その犯人、とても貴重なポケモンを連れていたんですよ」
 眉を上げ、どんな? と平然と問い返つつ、トウヤはおかしな感慨に耽った。
 犯人。――自分はこの連中に、『犯人』と呼ばれているらしい。
「強力なエスパー技を扱うんですが、それだけじゃあない。美しい毛皮を持っていて、その毛皮を使って、あらゆるものに擬態する能力を有している。そして更に、そのポケモンは他者の『心を操る』と」
 恐ろしく冷たい鉄の杭が、身体の奥深くまで、一言ごとに、打ち込まれていく。背筋が伸び、視界の輪郭が鮮明になる。朧で不確かな世界にいつから浮遊していたのだったか。こんなにも思考がクリアで、地に足がついた感覚がするのは、本当に久しぶりなような気がした。
『……人に優しい子に向かって、運命は、それほど残酷な仕打ちは、しない』
『だから、この子は』
 ――悪い子だ。あの晩に聞いた父親の言葉は、呪いのように、全細胞に刻み込まれている。
 僕は悪い子だから、どんなに悪いことが起きても仕方ないと思えていた。ココウに捨てられたことも、友に騙されていたことも、姉によく似た女のことを、心底好きになってしまったことも。記憶喪失の子供を拾ったら、それが自分を殺すために生きてきたのだと言い出したことも。自分だけじゃなく、他人の捨て子や少女まで、自分に関わったせいで孤独にさせてしまって、不幸にさせてしまったのは、本当に悪いことをした。だが、それもどこかで仕方ないと思っていたのだ。あの日、僕が、取り返しのつかない悪戯をしたから。運命の女神と言う奴に、僕は嫌われてしまったから。
 僕が悪い子だから、――と言っているのは、自分の首を絞めているようで、だが、楽な選択肢でもあった。僕のせいでと言いながら、その実は、別の何かになすり付ける。それも、運命とかいう、神様とかいう、あまりにも強大な不可抗力だ。不可抗力のせいにしておけば、自分の愚かさや無能さからは目を背けていることができた。
 だが、僕が悪いと言いながら、膝を抱えて待っていたって、誰も迎えに来なかったし、結局のところ、誰も、許しちゃくれなかった。
 父さん、母さん。――姉さん。そうなんだろ。
「実は、そのポケモン、三年ほど前に、リューエルから盗まれたポケモンなんですよ」
 壮年の部隊長が、『犯人』に向かって、圧のある声を押し込んでくる。
「ワタツミで捕獲したんですが、直後に盗まれまして。この地方ではかなり珍しいポケモンですから、おそらくその個体で間違いないかと」
 そのレッテルは、正しいのかもしれない。犯人と言う言葉は、男の胸の内に、肯定的な風情さえ伴って溶け込み同化していった。長らく空いていたねじ穴に、その言葉が嵌って、ぴったりと据え付けたような安心感がする。十歳になった日、トウヤは確かに『犯人』だった。それがいつその異名を冠することが無くなったのかと言えば、いつでもない。誰にも許されていないなら、トウヤが犯人であるという事実は、未だに終わっていないのだ。けれど、じゃあ一体、僕が左腕に受けたその悪行の罪滅ぼしは、いつになったら終わるんだ?
 馬鹿馬鹿しい。と、思えた。
 待っているのも、怯えているのも。もう、僕は、うんざりだ。
 僕は悪い子だ。だから、運命に見放されている。だから蹲って身を委ねていても、悪いことしか起こらない、そう言うならば――徹して、僕は悪人に帰ろう。どんな生き方をしたところで、最後にはどうせ断罪される。十歳の僕が待っている、あの月の夜、鉄格子の内の地獄まで、いつかは叩き落されるのだ。ならばそれまでの猶予くらいは。抵抗してみせよう。姑息な手段で戦って、手の届かないところまで逃げ切って、地べたを這いずり回ってでも、不可抗力に抗ってやろう。この悪足掻きが滑稽ならば、せいぜい笑っていればいい。
 塵芥の人生だって、僕のものだ。ここからは誰にも預けはしない。
「ご存知ありませんかね」
 もう一度、キノシタが低く尋ねる。
 トウヤはあくまで困ったように、笑みを浮かべた。



 いよいよ家に近づいてくる頃には、尾行する不審者の姿をミソラも認識し始めた。少なくとも二人。どちらも男で、大人だ。力では敵うはずもないし、うまく撒けるとも思えない。変に怪しまれるような行動をするよりも、そのまま帰宅する方が得策だろう。
 トランシーバーはアズサが持っている。トウヤがまだ家の中にいるのか最後まで確証が持てなかったが、南下する大通りの右手に赤い屋根が見え始めた時、そこに見知ったポケモンがとまっていることに気付いた。ピジョンのツーは、目立つ金髪の頭をすぐに見止めた。こちらを探していたようにも見えた。合図するように翼を震わせ、飛び立つ。この寒いのに開きっぱなしの二階の窓へ、ひらりと吸い込まれていく。
 既に高まっていた緊張が、また一層に膨れ上がった。
 胸に抱えた大きな紙袋にぐしゃりと皺が寄る。いけない。平常心を保たなければ。今だって、背後から、二人分以上の悪意の視線が、こちらを見張っているはずなのだ。
 できるだけ真顔を整えながら玄関に近づき、扉の手前、大きな窓から、横目に店内を覗きこむ。知らない男が二人、こちらに背を向けて座っている。カウンターの中で対応しているハギはミソラに気付いていない。
 戸を開け、何気ない顔でただいまと言い、二階へ上がり、トウヤに話をする――ちゃんとばれずにできるだろうか。アズサの家から出てきたミソラを、背後からついてきた二人は怪しんでいるはずだ。
「……そうだ」
 戸を離れ、敢えて声に出して呟いて、ミソラは踵を返した。
「裏口から入ろう。お客さんの邪魔になっちゃう。こんな早い時間にお客さんがいるなんて、珍しいな」 
 言いながら、隣家との間にある通用路へと半身になって滑り込む。薄暗く、狭い空間にビールケースが積み上げられており、視界は悪い。この通路は確かに裏庭へ繋がっている。だが、裏庭まで出て裏口から戸を開ければ、カウンター席に座っている二人組には確実にミソラの姿が見える。物珍しい容姿をダシに引き止められたら終わりだ。どうにしろ一階からは入れない。
 裏庭へ回ったふりをして、ビールケースの影へ身を隠した。息を詰めると、どっどっと血の流れる音が耳の下から聞こえていた。
 ビールケースの持ち手の隙間から、青い目を、大通りの方へ向ける。
 一瞬だったが確実に、複数の男がハギ家の入口へ近づいていくのが見えた。戸が開かれる分だけ呼び鈴が鳴り、それが戻る分だけまた鳴り響き、戸が閉まって鳴り終わる。半年以上聞き続けてきた音だ。見なくたってちゃんと分かる。
 追跡してきた連中は、酒場の中へ入ったようだ。おそらく、ミソラがアズサ宅にいたことを、中の二人に報告する。長話にはならないだろう。あまり時間がない。
 上着の前を開け、紙袋を服の内側へ入れ、もう一度チャックを閉めた。これで両手が使える。
 空のビールケースが積み上がっている向かい側に、隣家の排水管がある。以前一度だけ、この排水管を伝って二階から外出したことがある。霧雨の降る夜だった。トウヤと二人で抜け出して、ビールをたくさん携えて、グレンの家へ向かったのだ。
 ビールケースを崩さぬよう足場にして、管の接合部のでっぱりに手を掛ける。腹の紙袋が邪魔だが、幸い大人しくしていてくれた。やるしかない。
 歯を食い縛って、ミソラは排水管をよじ登り始めた。
 相変わらず獰猛な北風が、裸の指先に食いつき続けていた。体重が掛かり、金属部が捻じれ込む。引き千切れそうなほどの痛みがした。壁を蹴りながら体を持ち上げる。右手を次のでっぱりへ。気合を入れて体を引く。屋根はじれったく近づいてくる。一旦屋根の上へのぼって、二階の窓の位置へ飛び降りなければならない。急がなければ。筋肉が震える。腕が痺れてきた。なかなか体が持ち上がらない。もう少しの距離がもどかしい。自分の軟弱さに腹が立って、惨めな気持ちに襲われるのを、押し返すように、また力を込めた。
 排水管から屋根へ、屋根から窓へ。子供の背丈でも飛び移れるように、色々と細工がしてある。ずっと気になっていて、トウヤに聞くと、昔のものがそのままになっているのだと教えてくれた。それを施したのがトウヤなのか、ヨシくんという人なのか、ミソラは知らないが。
 正面から、一階からではなく、わざわざ二階から家に帰らなければならない事なんて、ミソラには一度もなかった。これまではずっと、ミソラはそれなりに良い子だったから。
 おばさんが見たら、そりゃ怒るだろう。ミソラにもそこそこ、トウヤには口酸っぱく、危ないことをするなと言い続けてきた人だ。怒るだけじゃない、悲しい顔をさせるかもしれない。でも、良い子ではいられないのだ。リューエルがメグミを狙っている、トウヤを殺すだなどと言っている、訳の分からない状況で、ひとつだけ、はっきりと分かるのは、アズサ宅の周りに張っていた、ミソラの後をついてきた、酒場の中にいたあの連中は、僕たちを害する敵であること。敵のすることを、指を咥えて黙って見ていたとするならば、それは良い子なんかじゃない。ただの、馬鹿だ。
 いや、本当は、馬鹿なのだろう。だって彼らが殺すと言っている人は、少し前まで、ミソラが殺すと言っていた人だ。この日常は、ほんの少し前までは、ミソラがぶち壊そうとしていた日常だ。今懸命に、死に物狂いで、夢中でしがみついてよじ登っているこの日々は、一度、ミソラが本気で棄ててしまおうとした日々だ。
 でも、それが、突然現れた別の人に、横から奪われてしまうなんて。
 ――絶対に助けなければ。僕が、助ける!
 呻き声をあげながら、屋根へ這いあがった。滑らぬようバランスを取りつつ、窓のある東側へ急ぐ。屋根の上にいる子供に道行く人が気付いたが、すぐに視線を外した。ココウの人にとってみれば、その家に外人の子供が住んでいること、そして屋根に人がのぼっているのも、日常の光景であるからだ。他に怪しそうな人目はない。
 首を伸ばして覗きこむ。僅かに見える窓は開いたままだった。軒先に取り付けられた持ち手を握り、
「……行きますね!」
 小さな声で宣誓した。意を決して、飛び降りた。
 ぐんと伸ばした爪先が窓の桟、を、掠った。届かない。あ、と思った時には、体がガクンと伸び切った。排水管の登頂で筋力は尽きていた。全体重の掛かった手がつるっと持ち手から外れた。あ、あ。空を掻く。失敗した。そのまま墜落していきかけたミソラが、思わず伸ばした手を、慌てて身を乗り出した人物が、ばしっと、腕ごと掴んだ。
 今度は、腕が抜けるかと思った。急激に引っ張りあげられたミソラは――引っ張り上げたトウヤの胸の中へと、体いっぱいでダイブした。
 受け止めたトウヤがそのまま尻餅をついていれば、派手な音がして異変に気付かれ、下の連中はすぐにでも駆け上がってきたに違いない。後ろに倒れかけたトウヤがギリギリ耐えて方向転換し、ツーが小さな『吹き飛ばし』で助力したお陰もあって、ベッドマットが衝撃を吸収した。勢い余って壁に頭をぶつけた分だけそれなりに物凄い音がしたが、それは下までは響かなかった。
 頑なに瞑った目を開いたとき、ミソラはトウヤに完全に覆いかぶさっていた。乗り上げて潰している人が後頭部を抱えて唸っている様を見て、今、何が起こったのか、やはりちっとも分からなかったが、とにかく慌てて身を起こした。
「え? あの、違うんです、あれ? こんなはずでは……わ、私……」
「……運動音痴が無茶苦茶するな」
「ごっごめんなさい!」
「しっ、静かに」
 そうだった。ほんの数メートル下にリューエルがいるのだ。こんな話をしている場合ではない――と、トウヤに伝えようとして、ミソラははっとした。
 トウヤが外から帰ってから、しばらく経っているはずだ。なのに、外行き用の汚れたコートを着ていた。机の脇には、いつもの大きなリュックサックが、荷を満載して置かれていた。
 お前に話がある、と、真剣な顔で、トウヤは言った。言われた瞬間に、何の話なのか分かってしまった。
 全身の血液が、一瞬すべて逆流したかというくらい、ショックだった。
 トウヤを『助ける』と意気込んでいた。だが助けるために、取る方法のことまでは、考えていなかったのだ。ミソラは彼の姿を見て、やっと理解した。トウヤを助けるために、彼らが無事に助かるために、これから、一体何をするのか。
 エイパムを守るためにミソラとタケヒロが逃げたように、メグミを守るなら、トウヤは逃げるしかない。それも、ココウではない、どこか別の場所へ。
 だから、これから、――彼は、この家を捨てるのだ。





 
 
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