僕らはやはり、醜い獣なのだろう。
 会話で分かりあうことなど出来ず、手持ちを挟まなければ面と向かえず、他者に傷つけ合わせることでしか、不満さえまともにぶつけられない。勝者と敗者を決める以外に争いを収める術を知らない、野蛮で低俗な獣。乾き埃立つ地面の上、この平らな、微塵の邪魔もないフィールドだけが、僕らが呼吸できる場所。
 僕らが、殴りあうことが出来る場所だ。


 
 普段昼休憩とされる時間をまだ過ぎていない。慌てて飛び出してきた審判のコールを待たず、赤サイドからフィールドに現れたグレンはすぐにボールを解放した。ルールの拘束など必要ない。試合ではなく喧嘩なのだと、彼の態度が知らしめてくる。
 弾けた光が二つ、殺気立つ影を形作った。ウォーグル、そして彼のエース格であるヘルガー。
「ルール・フリー(トレーナーボックスを用いない試合形式)、使用ポケモンは二体――」
「出せ!」
 若い審判の上擦った声を遮り、グレンが怒号を飛ばす。トレーナーベルトから一番目と二番目を手に取り、トウヤもボールを解放した。
「ハリ、ハヤテ、頼む」
 輝かしい白光と共に飛び出したノクタスとガバイトが、揃って振り返り、頷いた。 
 不在がちの王者と、子供の指導ばかりで試合から遠ざかっていた伯仲の二番手。ココウスタジアム屈指の好カードの開戦をどこで聞きつけたのか、ほぼ無人だった観客席へ次々若者が走り出てくる。だが、関係ない。野次も声援も喧騒の泡沫。彼らが聞くのは己が従者の息遣いと、敵方の指示の声だけだ。
「ウォーグル、『追い風』を起こせ!」
 先手、脈打つように大きく翼をしならせた大鷲が、風圧でフィールドを支配する。『向かい風』に反抗するトウヤと従者たちを、
「――ノクタスから潰せ!」
 強い語気が、一声、貫いた。
 敵方二体が同時に発進した。
 スタイルは対照的だ。グレンは有無を言わさぬ圧倒的なパワーで、トウヤはその脇の下を潜り抜けるような戦法で、常に相手を負かそうとする。先鋒向かい来る地獄の番犬に対し、トウヤが最初に命じたのは『わたほうし』。声で技名を宣言し、従者の耳元のボールマーカーへと、ボールを爪弾くリズムで更に子細を命じる。指示の詳細を敵が知る方法はない。
 後退させつつ広範囲に撃たせたハリの白綿が、瞬く間に焼き払われていく。だが『わたほうし』の効果そのものは指示の意図ではない。炎技で綿を処理するヘルガーの足止めと同時に、弾幕を目隠しにハヤテを接近させる。その上を滑り出たウォーグルへ、右鰓を振り上げ奇襲を仕掛ける。狙い通りの形が決まった。
「ドラゴンクロー!」
「ならばブレイククローで跳ね返せ!」
 片や下方から、片や上方から――強襲する鰓と鷲爪が、火花をあげて激突する。甲高い音と衝撃の後、下からの攻撃が押し負けた。
 地に叩きつけられ体躯を弾ませる青竜。ダメージを受けながらも続けざまに放った『竜の息吹』が追撃の発動を遅らせたが、それでも回避が間に合わないか。『エアスラッシュ』の一閃が掠め、苦悶の唸りを上げたハヤテが一旦距離を取る。一方で焼き払った『わたほうし』を突っ切るヘルガーへ、ハリは『エナジーボール』で牽制を仕掛ける。回避は早かった。風が後援している。後脚を蹴り上げ襲い掛かる、狙いは指示通りの案山子草。
 コオッと赤く喉奥が輝く。ハヤテを退けたウォーグルが急激に旋回し標的を変更する。あっという間にハリが挟まれた。『追い風』に乗った素早い攻め手に、トウヤは表情を険しくする。
「火炎放射、エアスラッシュ!」
「ニードルガード!」
 無数の棘を帯びた防御壁を、強烈な熱と風の刃が左右から圧した。
 技を発動する隙を逃がす手はない。ボールを弾き送った指示にハヤテが即座に反応する。ダブルチョップ、狙いはヘルガー。了解の短い咆哮と共に果敢に跳躍し、懐に切り込んでいく。
「そっちでよかったのか?」
 遠く向かいでグレンがニヤリと笑い、右腕を掲げた。
 翼を返し、ウォーグルが辻風と化して上空へ飛翔する。ダブルチョップはヘルガーの腹と顎の下へ的確にヒットした。だがヘルガーの体が吹っ飛んだ直後に異変が起こった。分厚い雲が落とす以上の濃い影が、広くフィールドを覆い尽くしていく。
 高らかなウォーグルの威勢が鳴り響く。藍翼が天へと召喚したのは、――目を剥きたくなるような代物だった。
 大量の『岩石』だ。スタジアム上空に浮かんでいる。
「避けろよ、トウヤ!」
「……――ッ!」
 言われるまでもなくフィールド際へ走り始めた瞬間に、無慈悲な轟音を響かせながら『岩』が『雪崩れ』落ちてきた。
 地が震え、塊になった風塵が突き抜け、頭上から幾多の悲鳴がガラスが降り注ぐように聞こえてきた。ぎりぎり逃げきったトウヤはそれでも数メートル吹っ飛ばされて派手に地面を転がり、起き上がりざまに、一瞬視界が混濁した。吐き気のするような眩暈。だがトウヤはそれを感じただけで、体調が優れない不利のことを思い出しもしなかった。試合中のフィールドに蹲っている余裕などない。
 奥歯を噛みしめ己を叱咤し、振り向く。一拍前とは全く違う光景が広がっていた。積み上がった巨大な岩が、フィールドを中央あたりで分断している。誰の姿も見えない。
 ぞっと焦燥が背筋を走った。
 岩山の向こう側、野次の合間から、聞き慣れた声が耳に飛び込む。トウヤを呼ぶ時のハヤテの鳴き声。
「ハリ、ハヤテ、来い!」
 名を呼んだ瞬間、岩山の向こうから青竜が飛び出してくる。更に傷を負っている、被弾したか。ハヤテを追って一瞬姿を見せたヘルガーが反転し、火を噴きながら岩山の向こうへ消えていった。その消失点と同じ方向へ、ウォーグルが槍のように降下していく。
 初めからハリを孤立させるのが狙いか。
 着地したハヤテの背に飛び乗ると、蒸気をあげる程の熱と興奮が伝わってくる。一足飛びに岩山の頂点へ向かっていく。ノクタスから潰せ。声が蘇る。潰すという惨い言葉の選択が、トウヤに攻めあぐねさせることを、彼は分かって言ったのだろう。ハヤテがウォーグルに押し負けた。『ニードルガード』を当然読まれ、主砲の『ブレイブバード』でなく特殊技の『エアスラッシュ』を使われた。半ばトレーナーをも巻き込む攻撃でハリを隔離してみせた、先にハリを失えばトウヤが精神的な支柱を欠く事さえ、グレンは全て計算ずくだ。
 相手が上手(うわて)だ。何枚も、何枚も。
 そんなことは、もう、とっくに分かっている!
「フリーフォール!」
 姿の見えないグレンの声が、焦りを更に増幅させる。トウヤを背に乗せたハヤテが岩山を乗り越えた時、大きな影が、猛烈な勢いで下方から突き上がっていった。
 強靭な爪にがっちりと背を掴まれたハリが、ウォーグルの羽撃きにより天高くへ連れ去られていく。フリーフォールは相手を掴んで一度上空へ飛翔し、それを落下させることでダメージを負わせる技だ。グレンという攻撃的な男が敢えてまどろっこしい技を使わせた理由をトウヤは計りかねた。だが、こちらを無視してウォーグルの進行方向を追うヘルガーが、凶悪な熱波を纏い始めたのを見て、――そして拳を振るグレンの表情を見て、全てを察した。
 次に来るのは『煉獄』だ。
 体側を強く蹴る。ハヤテが自慢の脚力で爆発的に飛び出していく。
 『フリーフォール』で『煉獄』の軌道点に落下させるか、或いは翼ごと突っ込んで焼くのか。だが、そうしてでもハリを落とせば、場は完全に向こうに傾く。
 『煉獄』の発動を止めればいい。気をこちらに逸らさせる。策を講じる暇はなかった、切り札を出さざるを得なかった。
「見せてやれヘルガー、『煉』――ッ」「『逆鱗』だ!」
 技名を大声で提示した瞬間、グレンが指示するよりも先に、ヘルガーが振り向いた。
 まるで薬物でも打たれたかのように、竜の身体がドクンと躍動する。背に乗っていても分かる。『目の色が変わった』。獰猛なオーラを噴出するハヤテがヘルガーを標的に定めた段階で、トウヤは背を飛び降りた。着地損ねて半ば岩場を転がり落ちながら、グレンの表情を見やった。――いつの間に覚えさせた、といった様子の呆気にとられた双眸。だが目があった瞬間、ぐっと挑戦的に、彼が笑んだ。
 クイックターンしたヘルガーが赤く熱された牙を剥く、そこへ真正面から突っ込んでいくハヤテが、欠片の理性もない哮りをあげた。 
 素早く身を捻る。野太い尻尾が黒犬を真横から強烈に殴打した。鈍い音を立て体を折り曲げ、唾を吐きながらヘルガーが吹っ飛ぶ。内壁にぶち当たり、落ちる。スタンド前方に群がっている野次たちから一際大きな声があがった。
 雨あられの歓声の合間に、岩の崩れる音を聞き逃さない。ヘルガーが立ち上がるのか確認する隙さえなく、『フリーフォール』で岩山に叩きつけられたハリへトウヤは平気かと叫んだ。頷きすぐに立ち上がったハリの黄色い瞳が、こちらを映し、ふっと見開く――肌が一挙に粟立つ。空気が震撼した。背後、間近だ。だがヘルガーもウォーグルも、トウヤの視界の中に入っている。
 振り返った先で、赤い気流と、
 ――青い竜の腕と鰓が、トウヤに向かって振り下ろされた。
 咄嗟に身を引いた。そうでなければ確実に頭をかち割っていた位置を、空間ごと断じる音を立てて、ハヤテが斬り抜いた。
 騒がしい観衆の声が頭を貫き、熱と息が迸り顔を打つ。また世界がぐにゃりと歪んだ。飛び退いて、トウヤは気付かぬ間に、再度岩場を滑り落ちていた。
 牙を剥き、自分に唸りを上げる従者を、呆然として見上げる。
 恐怖よりも、もっと別の感情が、ぞわりと体を這いあがっていた。
 逆鱗使用後の『混乱』状態、無論、そうなるリスクは知っているが。そうじゃない。間近に見た従者の様相への違和感をトウヤが理解する前に、間にハリが割って入った。庇いつつ同僚と敵対する。
 ハリを挟んで、ハヤテの顔と向き合い、トウヤは喉を詰める。
 怒り狂い、興奮して息を荒げる、愚かしい若竜の瞳孔の奥に。
 確かに『自分』の姿を見たのだ。
 ハヤテが長い咆哮をあげる。叫ぶ当人にさえ分からないような何の意味もない雄叫びだった。その噴き出した怒りの裏に、動揺も、困惑も、あからさまなほど紛れていた。見せつけられた気がした。腸(はらわた)を暴かれた気がした。喉の奥が橙色に輝く。その光に魅入られた。『竜の息吹』の初期動作、動けないトウヤのすぐ際を――、巨大な翼が、ぎゅんと鋭く翔け抜けていった。
 混乱したハヤテの視線は今度はそちらへ奪われ、ウォーグルへと『竜の息吹』を発射する。てんで策の無い一撃を難なく躱してみせると、
「――何の茶番だ!」
 いつの間にウォーグルの背に乗っている男が、へたり込んだトウヤに大声で吠え、
「真剣勝負の最中だろうが!」
 そして、ニッと、笑みを見せた。
 飛び去り、切り返し、躊躇なく放たれる『エアスラッシュ』の嵐が足場を崩壊させ粉塵を巻き上げた。ポケモンだろうが人間だろうか見境のない攻撃の渦中で、ハリが盾になろうとする。二番目のボールに一旦ハヤテを吸い込ませ、耐えるハリの背の裏から、トウヤは空を見据えた。
 どうどうと吹き荒れる砂と風切り音の嵐の向こうに、黒く巨大な鳥影が見える。
 ――睨む。拳を握る。ハヤテ、見えるか。あれが倒すべき宿敵だ。ただの試合相手ではない。必ず負かさなければならない、この喧嘩だけは、今日ばかりは。あれは、僕の、確実に乗り越えるべき壁だから。
 誰でもない、自分の為だが、自分の感情は、自分だけの感情ではない。
 ハリも、ハヤテも、共に背負って、立ち向かってくれているのだ。
 霧散しかけていた感情が、腹の真ん中に凝縮していく。立ちあがり、ちらりと窺ってきたハリの背を、どん、と、トウヤは叩いた。
「やるぞ!」
 叫ぶ。
 吹っ切れたような相方を一瞥し、案山子草も頷いた。
 粉塵が好都合に身を隠したがそれも束の間だ。飛び出したハリの姿が強い北風に晒された瞬間、ヘルガーが至近距離から『火炎放射』を放つ。岩の入り組んだ場所に逃げ込みつつ再度『ニードルガード』で防いだハリの姿が、波打ち広がる炎へ呑まれた。炎が切れる瞬間、同時に防御壁が溶けた。ヘルガーはすぐさま次の技へ繋ごうと息を吸った。上空のグレンと地上のトウヤの指示が、ほぼ同時に重なった。
「『オーバーヒート』で決めろ!」「『不意打ち』ッ!」
 身を引く挙動を見せかけたハリが、ぐんと前進した。強力な一撃を叩き込まれたヘルガーは、――ぎりぎり持ち堪え、渾身の『オーバーヒート』を噴出した。
 二体が相対していた岩場が、凄まじい烈火に染め上げられる。
 常時ならば恐怖を呼び起こす荒れ狂った炎の海に、ノクタスの、崩れ落ちる影が、審判サイドには見えたのだろう。審判が戦闘不能を声高に叫んだ。ヘルガーが飛び出してくる。『不意打ち』は決まったように見えたが、また落とし損ねたか。一つ目のボールを取り、未だ燃え盛る炎の方へ、トウヤはボールを向けた。
 二体が戦闘不能に陥るまで勝負は続行される。一つ目のボールをボールホルダーに引っ掛け、二つ目を再度解放した。いけるか、と声を掛けると、まっすぐな正気の目で、ハヤテは頷いた。
 しぶとい炎が頬を照らす。熱波が汗を滲ませる。
 グレンを背に乗せたウォーグルと、満身創痍のヘルガーが、同時にこちらへ迫ってくる。
 なんだろう、その光景に、――世界がひらけていくような高揚を、トウヤは感じていたのだ。
 『岩雪崩』をグレンが命じた。トウヤはハヤテの背に飛び乗った。何も言わずとも、ハヤテは駆け出す。スピードに乗り始める。地を蹴り砂を掴み岩を跳び超えるたび、熱と鼓動が上昇していく。眼前の翼を目指す。遠かった。うんと高くに見えた。でも着実に迫っていた。一歩一歩踏みしめるたび、殴り飛ばせる距離へ、トウヤとハヤテは近づいていった。
 逆鱗を使わせたハヤテには、グレンの嘘を暴いていくときの、トウヤの動揺と怒りと悲しみが、そっくりそのまま乗り移っていた。でも本当は、技を使用したタイミングではない。バトルを始めた時から、ボールから繰り出した時から。いや、――観客席で並んで、グレンと言葉を交わしていた時から、ボールの中で、トウヤの分まで、身を震わせていたに違いないのだ。戦わせていると思っていた。代わりに殴らせていると思っていた。ずっと分かっていたはずのことを、トレーナーの端くれとして当然理解しているべきことを、怒りにかまけて、失念していた。
 共に戦っている。僕の分まで、こいつが怒って、相乗の怒りで、殴りにいくのだ。
 落石による粉塵が強風に舞い上がる。襲い来る炎の塊を避け、ハヤテは力強く地面を蹴った。炎と風、熱と冷気の両方を受け発つ。上空。グレンがしがみつくウォーグルが、振り上げたハヤテの腕へ対して、強硬な鷲爪を振り下ろした。
 ドラゴンクロー、ブレイククロー。二度目の対峙は互角だった、両者弾け飛ぶように離れた。互いに身を預ける者を震撼させたその一打が、ボロボロになった表面を、打ち砕いて、あるがままを、剥き出しにさせた。
 着地し踏ん張り歯を食い縛りハヤテと共に睨み上げた先で、――視界を焼かれて、トウヤは不意に目を細める。
 あんなに分厚く世界を閉ざしていた雲が、嘘みたいに裂けていた。
 ウォーグルの背後から、真っ白な輝きが、燦然とフィールドへ降り注いでいた。
 光の中で。その逆光の中で、

 楽しそうに、嬉しそうに、笑う男と、目を合わせた。

 その時、自分が高揚した意味に、トウヤはやっと辿り着いた。
(永遠に、今という時間が続くなら――)
 ああ、それでも、――

 グレンが腹の底から叫ぶ。


「来い!」
 
 
 ――突き動かされるように、ハヤテが、天へ跳躍する。


 最後の応酬の直前。
 怒りとか。
 虚しさとか、悲しみとか、悔しさとか。
 感情は、風を受けて、尽く焼き切れていった。遥か彼方へ流れていった。

 長い長い一瞬だった。
 何か叫んでいたのかもしれない。分からなかった。
 ただ、倒すべき相手だけが、両手を広げて、待ち受ける空へ、トウヤはハヤテとひとつになって、夢中で殴りかかっていった。残っていたのは、それだけだった。


「――――『逆鱗』ッ!」

「『ブレイブバード』ォ!」
 


 ――色も音も痛みも戻ってきて、凄まじい衝撃が、体を貫いて、







 ――落下し崩れ落ちたハヤテの背から、トウヤもどっと転がり落ちた。
 起き上がろうと地に突く腕が震えている。なんとか上体だけ起こし、傍に横たわる青い体側を、労うように撫でた。傷だらけのハヤテはぐったりと地面に首を伸し、少しだけ楽になったような顔で、すっかり気を失っている。
 振り返る。乱雑に岩の残るフィールドの真ん中あたりで、グレンがよろりと起き上がった。ウォーグルは戦闘不能状態だ。そして、――残るヘルガーが、朧げにふらつきながらも、グレンの横に立っている。
 いつの間に大入りになっていた観客たちが、劇的な試合の決着に、雷鳴のような大歓声を上げた。
 熱闘を賛辞する声、敗れたトウヤを詰る声、意味のない咆哮の渦がうねりになって、ひっきりなしにフィールドを満たしている。トウヤがハヤテをボールに戻すと、審判が赤サイドの旗を掲げた。一際高まる歓声の中央で、グレンは風船が弾けるような笑い声を上げた。少し前、それこそ試合を始める前までの、嘲笑するような色はない。すっかり憑き物を落とし尽くした、晴れやかな笑い声だった。
「ガッハッハ、惜しかったなァ!」
 座ったままのトウヤへ、歩み寄ってくる。ボールを手に取り気絶しているウォーグルを戻すと、フィールドに転がっていた岩たちが瞬く間に消滅した。グレンはその様子を見届けるでもなく、トウヤの前までやってくると、
「だが、良い試合だった!」
 健闘を讃えるように、大きな右手を差し伸べてきた。
「……ああ」
 それを見て、トウヤも幾分せいせいした顔立ちで、ひとつ頷き、
「惜しかったな、グレン」
 はっきりと、『自分の勝ちだ』と、グレンに言った。
 完全に得意になっていた大男は、当然目を瞬かせる。
「あ?」
「ハリ、『騙し討ち』」
 トウヤが『技名』を宣言すると。
 ――グレンの背後で、どさり、と、何かが倒れる音がした。
 歓声に包まれていたココウスタジアムを、いつの間にか困惑のざわめきが席巻している。差し出された手を取るまでもなく立ち上がったトウヤと、振り向いたグレンの視線の先に――、いるはずのないノクタスが、何食わぬ顔で、突っ立っていた。それにたった今とどめを刺されたヘルガーは、地面にすっかり伸びている。立ち上がれる気配もない。
 グレンは絵に描いたような唖然とした表情で、そのひょろ長い案山子草と、弟分と、彼のボールホルダーに確かにおさめられたはずの、一つ目のボールを順に見た。それからもう一度トウヤの顔を見直した。笑っているような困っているような、形容しがたい表情を浮かべている。
 一瞬眉根を寄せたグレンが、――唐突に悟って、ばちんと大袈裟に手を打った。
「身代わり、いや、『影分身』か!」
 こりゃやられた、いつの間に覚えさせたんだ! と、仰け反るようにして驚いて、そのまま脱力して膝から崩れ落ちて、尻の後ろに腕をついて、げらげら大声で笑い始めた。
 取り残されておろおろとする若い審判が、とりあえず白旗を上げ直す。勝者と敗者が入れ替わったことを理解した観衆たちが、また歓声を大きくした。その騒々しさにも負けないくらいにグレンは馬鹿笑いし続けていた。腹を抱えて噎せるほど笑って、目の縁に涙まで溜めながら笑って、それからトウヤに、こう言った。
「やっぱり、お前とバトルするのは楽しいなあ!」
 ――立ち尽くしていたトウヤの、頑なな胸中の堤防が、こみあげる熱さで、静かに崩れていった。
 唇を噛んで、眉根を寄せながら、それでもぐいっと口の端を上げた。下手糞にでも笑えたと思う。最後に、笑って、笑った顔を、グレンに返して、黙って、トウヤは背を向けた。
 グレンが何か言った。笑いながらだったし、喧騒に紛れていたから、何を言ったか分からなかった。分からなかったことにした。もうこれ以上、何ひとつだって、この場所に気持ちを残したくなかった。
 ただ背中越しに、右手だけ、ふいっと上げて、さよならを告げた。
 鳴りやまない喝采の中、フィールド中央から通用路へと、トウヤが歩いていく。ひょこひょこと追いかけてきたハリが、ボロボロになった被り傘の下からひょいと見上げた。まん丸の月色の瞳と、トウヤは目を合わせた。まるで仏頂面に見えるその顔にも必死に笑い返したとき、笑い返したトウヤの背を、ぽん、と、ハリが叩いた。
 だからもう、それ以上、堪えることなんかできなかった。
 やめろ馬鹿、と呟き、早足にフィールドを歩き去る。通用路への扉を開いたとき、ああ終わったんだなと実感がこみあげて、ぶわっと頬まで涙が溢れて、たまらず顔を拭ってしまった。観客の何人かには悟られてしまっただろうが、砂が入ったとか、適当に言い訳すればいい。まあ、もう、終わったことなのだから、どうだっていいとも。僕は、――僕らは、ちゃんと、グレンに勝ってみせたのだから。




















 立ち去って行くトウヤが、背中越しに手を上げるカッコつけた仕草を見て、グレンはやっぱり笑い続けていた。
 距離が離れていく。最後まで見届けてやることはしなかった。どさりと背中まで地面に預け、仰向けに転がって、笑いはちっともおさまらなかった。目の前には裂けた雲が辛抱強く留まっていて、透き通った白い光を、この地へ導き通している。お迎えか、それとも断罪か。どっちにしろ、それはもう、嘘みたいな光景だった。
 『騙し討ち』。
 よりによって。騙し討ちとは。絶妙すぎる技のチョイスだ。やっぱりセンスあるじゃないか。
 十二年間、騙し続けていた男が、最後の最後に騙し討たれて、ものの見事に敗北を喫する――。
 なんて清々しく、鮮やかな結末だと思った。こうでなければいけなかったとさえ、思い始めた。可笑しくて、可笑しくて、体がいっぱいになって、いっぱいになるものを吐き出すために、彼はひたすらに腹を抱えて、『グレン』というやつを笑い続ける。
 おい、トウヤ。
 長い、長い、十二年と言う取り返しようのない歳月、積み重ねてきた悪行に、けじめをつけてもらえたと。
 俺は、思ってもいいんだろ?
 笑いが止まらなかった。可笑しくて、嬉しくて、たまらなくて、起き上がったヘルガーがよろよろと歩み寄って、隣に座り込んで尚、グレンは仰向けに空を見上げて、声が嗄れるまで笑い続ける。
 光の帯が揺蕩う、白んだ空。
 お前は覚えてないんだろう。出会った日のことなんて。
 あんまりにも、長くて、――そして、苦しくて、虚しくて、
 心底、楽しくて仕方なかった、


 嘘だらけの、本物の日常が、遂に、終わる。


 観客は興奮のまま残り、まだざわめき続けていた。
 それが騒々しかったから、仰向けのまま、両手で目を覆って、笑い続けていたグレンが、――大声で泣いていたことになんて。
 傍に居続けたヘルガー以外、誰ひとりとして、気付くことはなかった。





 
 
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