14



「なぁ、レンジャー」
 覇気のない男の声に、マントの女はきりっとした剣幕で振り返った。
「ここは私の家、あんたの秘密基地じゃない、喫茶店でもバーでもない。愚痴なら余所で言え、ついでに私はお茶汲みじゃない」
 ココウ西部、半ばスラムと化しかけている一角の、こぢんまりとした木造家屋。薄暗いその部屋の中央で主人が何やら沈んでいるのを、ノクタスのハリはもそもそと飼料を貪りながら眺めている。
 突風のような早口に煽られながら差し出された湯呑を握るだけ握って、トウヤは机の上にぐったりと突っ伏した。
「……ドラゴンタイプのポケモンって、キャプチャも難しかったりするのか?」
「何その遠回しな……まぁいいわ。一般的には難しいって言われてるけどね、個体数が少なくてなかなかミッション対象にならないから何とも。例のガバイトちゃんね、ちょっと前に進化したって喜んでた」
 突っ伏したまま、男はくぐもった声を返した。
「どうして二匹目のポケモンに扱いの難しいドラゴンタイプなんて連れてるんだろうな、僕は」
「トレーナーやってる時間で言えば十分なんじゃない?」
「育成に関しては素人だ」
「はいはい。その感じだと、どうせお昼抜いてるんでしょ」
「気分じゃない」
 同情混じりの視線が流れてくるのに、昼食にありついたばかりのハリは何の反応も寄こさなかった。
 戸棚の上で埃を被っている菓子折にちらりと目をやって、女はわざとらしい溜め息をひとつ。それからそれは下ろさずに、引き出しへと手を掛けた。
「ねぇ、仮にも年下の女の子の家に、しかも用事もなしに転がり込んで気を使わせてるって自覚ある? この愚痴製造マシーンが」
「……女の子」
 その完全な独り言に、この治安の悪い町で平然と女の一人暮らしをする若干十七歳のポケモンレンジャーは、赤の隊員服を隠す黒マントを翻してずかずかと男へ歩み寄った。
「何、文句おありで?」
 そうして目の前に叩きつけられる数枚の書類に、用事あるじゃないか、とぼやきながらトウヤはようよう顔を上げた。
 日付のみ刻印された一枚目をめくって、その真ん中に目を留める。トウヤが何か言う前に、レンジャーはひょいとテーブルの上に腰かけた。朗報よ、と囁くその瞳の奥には、何かを見透かすような光がちらついている。
「三日後の朝から、『死の閃光』の調査がユニオン主導で始まるわ」
 死の閃光――ココウの周囲に広がっていた森林を一夜にして消滅させた謎の光のことを、人々はそんな名前で呼んでいた。
 渡された資料の二枚目、黄土色が大半を占める地図の中央には大きなバツ印が打たれ、そこを中心として幾重かの円が波紋のように描かれている。調査ポイントを示す赤い星は、その円心の辺りに散らばっていた。
「ついに中央部の調査か」
「みたいね。危険因子とされている『灰』の飛散濃度が、ようやく基準値を下回ったとかどうとか、まぁ詳しい話は分からないけれど」
「……ここまで来るのに、あの夜から三年もかかった」
 そう呟いて感慨深そうに目を細めるトウヤに、レンジャーはいたずらっぽい笑みを向けた。
「調査が始まれば、今まで手付かずで保存されていた爆心の姿も、二度と見れなくなるけどね」
「あぁ、それは残念だな。でも、レンジャーユニオンの調査結果はどうせお前から入ってくる」
「自分の目で見たいんじゃなかったの?」
「……けど、」
「奴らが、何を、どうして、それもここを選んで、こんなことをしたのか、自分で確かめたかったんじゃないの?」
 畳み掛けてくるレンジャーに、トウヤは顔を上げた。
 僅かに沈黙が流れた。目を逸らさないレンジャーに、トウヤは何か諦めたかのような表情を浮かべて、再び手元の資料に視線を落とした。
「興味ない訳ないだろう。あの日からずっと、奴らのことばかり考えてきたんだ。……それでも、あれだけ周囲の警備が厳しければ、見たくても近付くことさえできないよ。五回忍び込んで、その度に君の仲間につまみ出されてるんだぞ。あそこの監視が強いのは僕達が一番よく知っている」
 なぁ、と部屋の隅に座り込んでいるポケモンに語りかけるトウヤを、レンジャーは至極つまらなさそうに眺めていた。
 遠く涼やかな鳴き声が聞こえたかと思うと、次の瞬間には騒々しい音を立てながら奥の階段からチリーンが一匹転がり落ちてきた。僅かに目を丸めるハリの前で球体は床にへばったかと思うと、すぐにふわりと浮遊して、愉快そうに笑いながら彼女の主の首元へ。マフラーのようにくるくると巻き付いてきたチリーンに、レンジャーは猫撫で声で話しかけた。
「せっかく、調査まで警備が手薄になるように手ぇ回してあげたのにねぇ」
 その言葉に彼が目の色を変えるのを、レンジャーは勝ち誇ったような微笑みをもって見下ろした。
「本当か」
 チリーンの声につられたように、ハリがとてとてと近づいてくる。レンジャーがその緑の頭をぐりぐりと撫でまわすと、ハリは濃い黄色の瞳を眠たげに細めた。
「あのね、私があんたと手を組んだのは、あんたが奴らに酔狂だったからよ。躍起になってるお兄さんが面白かったから力貸してあげようと思ったの。諦めのいいお兄さんなんて知らないわ。もっと必死になってよ」
「……馬鹿にしてるのか」
「知らなかったの?」
 レンジャーはどこからかペンを取ると、身を乗り出して資料の地図の中に矢印を書き込み始めた。
「このポイントからなら、爆心とされてる部分まで誰にも見つからずに進入できるわ。夜中より夕暮れ時の方が監視の目が弛む傾向にあるみたい。ただし三日後にはユニオンのお偉いさん達が集まってくるから、二日目の夜には必ず現地を離れること。もし見つかっても、絶対に私の名前を出さないこと。いいわね。偶然通りかかる旅人も多いらしいから、知らずに入り込んだって言えば大丈夫でしょ……さすがに顔覚えられてるか、まぁいっか」
「……レンジャー」
「ただね、普通の人間の安全値はクリアしたとは言っても、まだ高濃度の『灰』が飛んでることは間違いないわ。距離的に薬を飲んでる暇はないわよ。どうする? それでも行く?」
 茫然として彼女を見つめていたトウヤだったが、今度は微かに笑顔を零して、資料を掴んで立ち上がった。
「分かってて聞いてるんだろう?」
 その様子に、レンジャーは肩に乗ったチリーンと目を合わせて微笑んだ。
「いい、お兄さんの体は普通じゃないんだから、絶対に無茶はしないこと。約束できる?」
「分かってるよ」
「ハリも、ね」
 ご苦労様、とでも言いたげな女からの目配せを受けて、ハリはやはりこれといったリアクションもなく、自らボールの中に戻っていった。
 ココウの昼過ぎの強い日差しが、天窓から差し込んでいる。それに翳すようにしてもう一度地図に視線をやり、背を向けて戸を開いたトウヤは、思い出したように振り返ってそこに立つ女と目を合わせた。
「恩に着るよ」
「はいはい、いってらっしゃい。お土産よろしくね」
 そうして慌ただしく去っていった男を見送ってから、レンジャーは閉まった扉に体を預けた。
 柱のような日差しの中で、巻き立った埃が踊っている。ふわりと口角を緩めると、女はチリーンの頭を人指し指で静かになぞった。コロコロと喉を鳴らす音が、薄暗い室内に染み込んでいった。





 カウンターの向こうの階段から下りてきたミソラの姿を見、リンリンと涼やかに鳴る音を聞いて、タケヒロはソーダ入りのガラス瓶につけていた口を離した。
「あー、それもしかして、あの時の鈴?」
 再びタケヒロの隣に腰かけると、ミソラは鞄の持ち手にくくり付けた真っ白な鈴を得意げに彼に見せつける。
「そうだよ、エイパムに盗まれて、タケヒロが取り返してくれたやつ。お師匠様がくれたんだ」
「ふーん」
「旅先で貰ったものなんだって。綺麗な音だよね」
 チリンチリンとそれを振ってから、ミソラはふと振り返った。
 昼下がりの大衆酒場に客はおらず、人に飼われたポケモンだけがそこにいる。ビーダルのヴェルはいつものように、店の隅の方で丸くなって眠っている。その手前で、さっきまで床に寝そべっていたはずのガバイトが、興味深々と言ったようにこちらへ首を持ち上げているのだ。
 遅れて振り返ったタケヒロにも見守られながら、ミソラはもう一度鈴を揺らしてみる。その音に呼応するようにガバイトは何度か瞬きして、それからうっとりと瞳を閉じた。
「ハヤテも、この音好き?」
 こくりこくりと頷く小竜に、ミソラは面白そうにそれを鳴らし続ける。
 その小さな鈴の音をかき消すように、入り口の扉に取り付けられた呼び鈴がけたたましく鳴り響いた。慌てた様子で駆けこんできたトウヤは、そこに寝ているハヤテを見つけると、片手に提げていた紙袋の中からいくつかの木の実と焼かれた肉塊を取り出して、その足元にトントンと並べた。
「すぐ出るぞ。行けるか? ハヤテ」
 一鳴きしてから肉に食いつきはじめたハヤテの顔色を確認すると、トウヤは唖然としている子供たちなど視界にも入っていない様子でばたばたと二階に上がっていった。
「……出る、って?」
「なんだよあいつ」
 悪態をつくタケヒロとは対照的に、ミソラは不安そうにカウンターの奥にじっと目をやる。
 しばらくすると、トウヤはリュックサックを担いで軽快に駆け下りてきた。別の扉から出てきたハギは、彼と鉢合わせるなり大きな溜め息をついた。
「また唐突だね」
「すいません、五日もしないうちに戻ります」
「どこに行くんだい?」
「ちょっと、外に用事があって」
 満足そうにぺろぺろと口の周りを舐めているハヤテをモンスターボールに戻すと、行ってきますと言って背を向けたトウヤに、
「――私も行きます!」
 子供が思わず張り上げた声は、驚くほどに気迫のこもったものだった。
 そうしてイスから飛び降りたミソラに、トウヤも、ハギもタケヒロも、寝ていたヴェルでさえも、一斉に顔を向けた。
 鞄を肩にかけ、指の中に小さな鈴をぎゅっと握った。なんだか分からない感情が急激に煮え立っていて、それなのに目の前の男は、平然としてこちらを見下ろしていた。冷めた視線が刺さった。ミソラはそれを、精一杯の強い瞳で睨み返した。
「私も、連れて行ってください」
 ハギは心配そうに、タケヒロはちょっと嫌そうに、ヴェルはいつもの呑気な様子で、事の次第を見守っていた。
 一瞬の沈黙の後――その空色の瞳に、トウヤは呆れも、戸惑いも、僅かな困った様子さえ見せなかった。
「だめだ」
 それだけ告げると、トウヤはハギに向かって、ミソラをお願いします、と言い残して、さっさと店を出ていってしまった。
 開いた扉が、あっけなく閉まって揺れた。呼び鈴の騒々しい音だけが、店内をしばらく巡っていった。
「……外はいろいろ危ないからねぇ、おばちゃんと一緒に留守番していようね、ミソラちゃん」
「ま、まぁ、気にすんなよ」
 二人の気遣う言葉に、ミソラはその場に立ち尽くしたまま、小さくこくんと頷いた。
「……はい」
 ハギは忙しそうに裏の方に戻っていった。タケヒロとヴェルが目を留める中で、ミソラの瞳は扉の向こうを見つめたまま固まっていた。
 ……そうだ、分かっている。町の外は危ない。自分には、自分を守れる力もない。足手まといにはなりたくない。これまでの七日間が、立ち止まる余裕も持たないまま飛ぶように過ぎ去ったように、寂しがる暇もないまま、彼もまたあっという間に帰ってくるのだろう。己に言い聞かせながらも、小さな胸を圧迫していく得体のしれない焦燥感は、ミソラの感情をあらぬ方向へと突き動かしていく。
「……タケヒロ」
 振り返り、口をついて出た言葉は、自分でも呆れるほどに、自然と滑りだしたものだった。
「行ってくる」
「え?」
 本能が足を動かした。ミソラは駆け出し、扉の取っ手を掴むと、それを勢いよく押し開いた。
「お、おい? ちょっ――!」
 タケヒロの言葉を聞き終わる間に、ミソラは大通りの喧騒の中へ飛び込んだ。
 肩に掛けた鞄が弾み、リンリンと鈴が鳴る。必死に人々の間をかいくぐっていく金髪の子供の姿に、多くの人が目を見張り、顔を向ける。ミソラはそのどれもが気にはならなかったが、ただひとつ、背中を追ってきたひとつの鳴き声だけが、その足の動きを鈍らせた。
 じれったそうに振り向いたその先には、でっぷりとした体を揺らしながらやってくるビーダルの姿があった。
「……ヴェル」
 その名前を呼ぶ。立ち上がり、息を弾ませ、しかし表情の読めない顔を向けてくるヴェルの姿に、ミソラは少しの罪悪感を覚えた。
 しかし。
「だめだよ!」
 ミソラは自分に向けられたのと同じ言葉を、そのポケモンに突き返した。
 向き直って走り出す。足音と鳴き声がついてくる。ぐるぐる渦巻く感情が、喉の方までせり上がってくる――でも、でも。
「ついてきちゃ、だめだってば!」
 行かなければ。
 もう一度、全速力で駆けだした。
 ついに足音は聞こえなくなった。ミソラは男の姿を探しながら、人のいない方へ、いない方へと進んでいった。





  
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