チャンバラ(1)






 お茶目な所もあるんだよな、と思う。
 ポケモンのこととなると、特にそうだ。ポケモンだけが友達、タケヒロの煽っていたあの言葉は後からデタラメと知ったけれど、そんなに間違ってないんだよな、とミソラはぼうっとそれを見ていた。
 ポケモンといるとき、ポケモンと話しているとき。彼は殊更楽しそうで、幸せそうで、優しくなるし、厳しくもなる。ポケモンの話をするときは、たまにお喋りさんになる。神話や哲学のお話よりも、生きているポケモンの営みが好きだ。種族特有の習性とか、体の仕組みとか技とか、そういうことに何より関心があるみたい。夢中になりすぎて時間の経つのも分からなかったり、ふいに真剣な表情を見せたりする、ポケモンに構っているときの彼の様子が、ミソラも一番好きだった。
 彼のそのポケモン『好き』の程度は、確かにちょっと、ちょっと常軌を逸している。世間様に奇異な目で見られても仕方あるまい、十数年来世話をしてきた叔母はともかく、世間的に『奇異な存在』のミソラにでさえそう思わせる執着っぷり。タケヒロも言ってたけれど、多分、四六時中ポケモンのことばかり考えている。というか、ポケモンにしか見せない顔が多すぎる。
 例えば、普段何事も素っ気なく無粋愛想なしな二十二の男が、裏庭で一人と三匹キャッキャ騒いで水遊びをしていれば、誰だって「こいつはおかしい」と感じるに違いない。
「……お師匠様」
 裏口の戸を開けて固まっていたミソラが声をかけると、特に驚いた風でもなく、おぉ、とトウヤは振り返った。
「なんだいたのか、ミソラ」
 右手に緑色のホース、包帯を外にいるときより割と適当に巻きつけた左手にはデッキブラシの出で立ちで。
 今でこそホースから水は出ていないが、捌けの悪い裏庭の真ん中は、大きな泥色の水溜りとなっている。ぷかぷか泡まで浮いて。その湖の真ん中で、『あ、ミソラ!』と目を輝かせたガバイトの体にも、至る所に白いもこもこが沸いていた。
 あとは奥の日の当たる所、前から一つ設けられている腰かけ用の廃材に、ノクタスとオニドリルが並んで座ってこっちを見ている。ミソラから見たその手前、何故か得意げに「何か用か?」と言いながらとんっとブラシの柄先を地面に置いたトウヤは、普段履きのズボンはいくらか捲くっているものの、つっかけの足はゆうに足首まで汚れていて、何が起こったのかほっぺたに一筋泥がひっついているのにも気付いていない様子である。
 そんな開放的なお師匠様は知らない。
 思わず笑いが出そうになった。楽しそうですねと問いそうになった。けれど、せっかく楽しそうにしているのに水を差しては悪いので、ミソラはどちらも我慢した。
「おばさんが、お菓子を焼いたので食べに来なさいとおっしゃっていますので」
「お菓子?」
「えぇと、ナンチャラパイとか……」
「あぁ、後で行くよ」
 それだけ言ってトウヤは元へと向き直った。ここまであまりに予想通りだ。ポケモンと戯れているとき、殊に食に関して彼は無頓着になる。
 ナンチャラパイ、と言った瞬間にハヤテがぱっと顔色を華やげて、後で行くよにがっくしうな垂れる反応の素早さがおかしくて、ミソラはくつくつ笑って肩をすくめた。
「でも、お師匠様。おばさん、冷めちゃうから早く食べなっておっしゃってたんです」
「じゃあミソラにやるよ、今はいい」
 ハヤテがエッと青ざめた。
「なんだお前、さっき飯食ったばっかりだろう」
「さっきって、もう三時間程前ですよ?」
「あれ、もうそんな時間か」
 夏も近い大きな太陽はまだ高くはあるが、空の中心からは大分逸れてしまっている。
 天を仰いだトウヤの前で、ハヤテは怒ったようにしたんしたーんと尻尾を水溜りに打ちつけた。泥水がぱっと飛んだ。メグミがぶるぶると翼を震わせて水泡が散って、ハリは若干体を外へ傾けた。
 こら、とデッキブラシでハヤテの頭を小突くトウヤを、ミソラはなんだかふっくらした気持ちで眺めている。
「ハヤテ、食べたいみたいですね」
「あぁ、分かったから大人しくしろ」
 そう言って、おそらく食べに行かせてやる気など毛頭ないトウヤは、足元に置いていた粉石鹸をブラシの毛先へ振りかけた。
 力いっぱい、という様子でごしごしこすると、もこもこ泡立った洗剤がハヤテの体へ広がっていく。洗われているのが気持ち良いのか、はたまたこそばゆいのか、ハヤテは途端にぐふぐふと妙な鳴き声を立てながら体を揺らし始めた。
 屋内に戻る気配が微塵もないので、ミソラは後ろ手に扉を閉めた。
「ハヤテは地面タイプなのに、水が苦手ではないのですか?」
 そうだな、と返事は声だけで顔は向けられなかったが、その声はなかなかに陽気な色だ。
「最初は暴れて大変だったな。けど、小さい頃から無理矢理慣らしていったら、この程度ならちっとも嫌がらなくなった」
 確かに、今は背中を洗われるために水溜りに伏せているハヤテは、むしろ水浴びを喜んでいるようにも見て取れる。
 足元に這っているホースをそっと避けながら、じゃこじゃこと硬い毛先が擦る音にミソラは耳を傾けた。
「必要があって体を洗っているんだよ。分かるかい」
「いいえ」あぁ、長くなるかも。
「ガバイトっていうのは本来、洞窟の中に住んでいるポケモンだろう。野性のなら、草原なんか普通一生歩かない。だから、草原にいる外部寄生虫が体に付くのに抵抗性を持っていないんだ」
 血を吸ったりする虫だよ、とハヤテを洗いながらぺらぺら解説するトウヤの後ろで、ミソラはふと視線を落とした。いつの間にやら足元にやってきていたニドリーナが、上目づかいにこちらを見ながら体を擦りつけてくる。
「本当に小さな虫だから特別痛がりもしないがな。鱗の隙間に入られると自分じゃ取れないようだから、こうして落としてやるんだ。ちょっと血を吸われるくらいなら構わないが、放っておくと変な病気を貰いかねない」
「病気ですか」
「野性が草原生のやつなら歯牙にもかけない細菌が、稀に厄介なことをする。そういえばミソラ、ちょっと前に、ポケモンにどうして固形飼料を与えるのかと言っていたけど」
「はい」
「市販の餌には、そういう病気を予防する成分が含まれているんだ。人間の都合にポケモンを慣らしてやろうと思えば、あれが必要なんだよ」
 でも、ハヤテはパイが食べたそうだ。……耳の裏をなすがままにされているハヤテを見ながら、ミソラもリナの体を見まわした。血を吸う虫は付いていないだろうか。
「ハリはともかく、メグミみたいな鳥ポケモンは、野性のも好んで水浴びをする。ガバイトはどうだろうな、砂浴びでもするのかな。ドラゴンポケモンっていうのは生態が解明されていない部分が多いから」
「なるほど」
「これは聞いた話で本当かは分からないが、野性のガバイトは土を掘ったり岩に体をこすりつけたりして、古い角質を剥がし落としているそうだ。……そうなのか?」
 ぺんぺんと鼻先をはたかれると、寝そべっていたガバイトは、主の手に押しつけるように顎を上げた。ふわっと笑みを浮かべる彼の横顔を見ていると、ミソラまで嬉しくなってしまう。
「なんにせよ、この季節は水をかけてやるとこいつらは喜ぶけど」
 やっぱり若干長かった話の終末をそこに感じて、ミソラはリナを置いてトウヤの方へと駆け寄った。
「手伝ってもいいですか」
「ん? あぁ、それなら、石鹸を流してもらうかな」
 裏口の付近にある蛇口を回すと、受け取った緑のホースから、じゃぶじゃぶと水が流れ出した。
 ハヤテの白いもこもこが、下へ下へと流されていく。口を絞って水流を強めてやると、ハヤテは尻尾を回して喜んだが、代わりに泥水が散弾銃の如く飛び散ってあっという間にミソラも泥まみれになった。
 ちらりと振り返ると、トウヤがリナに手を触れていた。
「ニドリーナってのは、思ったより皮膚が柔らかいな。タオルか、スポンジがあったかな」
 まだ慣れていないのだろう、リナはフーフーと息を荒げ若干怯えた様子であったが、トウヤはそんなことは意に介さず、楽しそうにひとりごちながら裏口の戸をくぐっていった。
 それを見届けて向き直ると、きょとんとしてこちらを見つめるハヤテとばっちり目があった。
「……あれ?」
 ホースの先からは、ちょろちょろと滴るくらいの僅かな水だけ溢れてくる。
「お師匠様ぁ、水が出なくなりました!」
「ホースが蛇口から抜けたんじゃないか?」
 開けっぱなしの扉へと大声で叫ぶと、案外近い所からくぐもった返事が返ってきた。そういえば、洗剤やタオルを置いている洗面所は、その戸をくぐってすぐにある。
 それで、蛇口の方へと視線を移してみれば、ホースはちゃんと蛇口の先を飲み込んでいる。
「おかしいなぁ」
 何かの拍子に回ってしまったのかと、ミソラは改めてぐるぐる蛇口を開放したが、やはり水は流れてこない。
 出ないか、とトウヤが戻ってきた。出ません、とホースを持ったまま、ミソラはトウヤへ近づいた。トウヤは視線を下げた。そこには二人を見上げるリナがいる。
「あ、踏んでる」
 トウヤがそう指摘し、緑のホースを踏みつける前足をひょいとリナが上げた瞬間。
 爆発的な噴射。生き物の如くホースが跳ねた。うわぁとミソラは力余って振り上げた。ぶっ放たれた水流が、派手な武骨な水竜が。目の前で顔を上げた男を、嬉々爛々とした勢いで、下から上へと打ち抜いた。
 ぴゅうと蒼穹へ飛んだ水玉が、きらきら笑って落ちていく。
 ――子狐程の夕立が駆け抜けるような水音が走った。足元の水溜りが幾重の波紋を巻き起こした。のほほんと座ったままのハリが目を白黒させ、のほほんと留まったままのメグミがふわんと体毛を膨らませた。
 唖然としてホースを構えたミソラと向き合って、トウヤもまた唖然として。
 暫く間があってから、はたと思い出したように、びしょ濡れになった目元を拭った。
 ……水も滴るナントヤラですね!
 もう少しで滑り出すところだったその言葉をミソラは必死に飲み込んだ。ゆっくり下げたホースの先からは、元に戻った水勢が、じょぼじょぼとそこに新たな小池を形成している。
「……ご、ごご、ごめんなさい……」
 ようやくそれだけ口にしたとき、しでかした雰囲気を感じ取ったらしいリナが、こそこそとミソラの後ろに隠れた。
 ぱっ、と、薄汚れたタオルが舞った。目の前で起こるそれが何が何だか、ミソラには止める余裕もなかったが、トウヤは立て掛けていたデッキブラシを捕まえると、そのままリナへと飛びかかった。
「こいつ!」
 委縮するミソラの真横でブラシの柄先は地を突いた。初撃を難なく逃れたリナは涼しい顔でミソラの周りを一周しジャンプ、かなり本気で振り抜かれたブラシの二打目を体を反らして危うく回避、そのままトウヤの肩に乗っかると、とんと蹴りあげて高く跳躍。相変わらずきょとんとするハヤテの頭上を飛び越えて、奥の二匹の前に着地、何食わぬといった様子のハリとメグミの目の前を脱兎のごとくぱたぱた駆け抜け、先回りしたトウヤの下方からの一撃をハードルの要領でかわし、敵が右脚を軸に回転しブラシ側の方を振り下ろしてくるところまではさすがに予測できなかったか、横っ跳びに滑り込むような形で無茶苦茶にそれを避けた。滑り込まれた水溜りが、リナの軌跡に波立った。
 振り返り真剣な表情で、トウヤはデッキブラシを右手で回す。その毛先から水の飛沫が散る中で、ミソラは何も言えず小さく固まっていた。こういうとき、彼が遊んでいるのか本気なのか、ミソラには本当に計りかねる。
 首だけ起こして座り込んでいたハヤテの体に、リナは勢いよく駆けのぼった。驚いたハヤテがわたわたと立ち上がり背を揺らし、足場を取れないリナが姿勢を崩した瞬間に、しめたとばかりに横からの柄先が飛んでくる。それでもリナは小ジャンプでよけてみせた。鼻先を掠られたハヤテの方が、むしろ情けない悲鳴を上げた。
 青竜の太い尾を滑り台の要領で降りると、反撃とばかりにリナは敵の腹へと飛び込んだ。慌ててトウヤが身を引くのでリナは勢い余ってぬかるんだ地面へとダイブ、しかし上手く受け身を取って転がると、後脚に力を込め切り返すその速さは、人の手で鍛え上げられたグレンのヘルガーと比べても遜色ない。『かみつく』を放とうと剥かれた控えめの牙に、トウヤは咄嗟にデッキブラシを構えた。
 がつん、と犬歯が柄に当たった――その一手が凶と出たか、一気に口の奥へと柄を押し込むと、トウヤはそのままニドリーナを地面へと叩き落とした。
 あっ、とミソラが息を飲んだ。ハヤテがぎゅっと目をつぶり、後ろの二匹は平然として――がふっ、と吐き出すような鳴き声を上げて地面に伸びたリナに、トウヤは柄を握り直すと、額へ素早く振り下ろした。
「リナッ!」
 ミソラの痛切な叫びを受けて、かどうかは分からないが。
 ぴたっ、と柄先が目の前に止まって、リナは寄り目にそれを見つめて、フーフーと呼吸を繰り返す。観衆たちの視線の中で、トウヤは不意に表情を崩すと、声を上げて笑い始めた。そうかと思えば、こつん、と軽くリナの鼻先を一度小突いた。リナは僅かに顔を歪めた。
「なんだ、体の小さい個体だけど、随分動けるじゃないか。いいポケモンを捕まえたな。ちゃんと育てれば、毒技抜きでもかなり使えるようになるぞ」
「え、あ……は、はい!」
 でも僕の方がまだ一枚上手だったな、と警戒を解いてハヤテの方へ向き直ったトウヤの後ろで、起き上がったリナは苛立ったようにふるふると身震いしている。
 ミソラからホースを受け取ると、トウヤは何事もなかったかのようにハヤテの体を流し始めた。彼が最初に放ったタオルを拾い上げると、ミソラはリナの方へと寄っていく。リナは未だ興奮していたが、体中の泥をタオルでぬぐってやると、幾分落ち着きを取り戻したようだった。
「少し鈍ったかな」
 ぽつりと彼がそう言うのに顔を向けると、ハヤテが首を傾げ、遠くの方でハリがこくりと頷くのが見えた。
「やっぱりか」
「……いつも、こういうことをされてたんですか」
「別にチャンバラじゃないけどな。お前が来てからはいろいろあって、あんまり体を動かせてない」
 すると何やら申し訳なさそうな雰囲気をミソラが全身から醸し始めたので、男は顔を向けないまま僅かに焦って言葉を継ぐ。
「あぁ、えぇと……そうじゃない。ミソラがこっちに来た後に、いろんなことが重なっただけだ、たまたま忙しくて」
「お師匠様」
「だから……」
 難しい顔で振り返ったトウヤに、ミソラはまさに申し訳ないといった声色で問うた。
「チャンバラとはなんですか」
「……え?」





「……ミソラちゃんまで戻ってこないじゃない。まったく、誰のためにこんなもの焼いたと思ってるんだか」
 その裏庭と隣接する家屋の中、酒場のカウンターで痺れを切らしたハギは、大皿に二枚のカスタードパイを乗せると、そこに転んでいる大きなビーダルの視線を受け流しながら立ち上がった。
 カウンターの裏からは薄暗い廊下が続いていて、右手には二階へと続く急な階段、左手には居間、ハギの寝室と、続いて脱衣所が並んでいる。そこのタオルが散乱している感じ、あのポケモンっ子は今日は水浴びをしているらしい。目の前の裏口の向こうからは若干騒がしいのも聞こえてくる。あの水捌けの悪い庭を、今日はどんだけ滅茶苦茶にしてくれてるんだか、とため息交じりに呟きながら片手で戸を引いた、その瞬間だった。
 ひらりと翻った棒状のものが、大皿を下から叩き上げた。
 悲鳴が轟き、屋根の上に避難していたメグミがぶるりと翼を震わせた。青い空をシルエットに白く輝く大皿と、二枚のカスタードパイが舞い踊って――どれもがべしゃんと泥水に落ちた。そこでうつ伏せて『斬られて死んだフリ』をしていたハリが、ひょっこりといつもの笑顔で起き上がった。
 笑顔でいたのはハリだけだった。同じく死んだ芝居を強いられていたハヤテは、いつになく緊張した面持ちで事の顛末を見守っていた。水溜りの中を駆けずり回っていたリナはというと平気な顔で、突然天から注いできた食べ物をもそもそ口にし始めた。怒りに震えるハギのすぐ左手、家の壁に寄りかかるようにしてミソラは肩で息をつきへたり込んでいて、泥まみれの手の中にはどこからか持ち出してきたらしい竹ぼうきが握られている。その右手前、つまりハギの目の前には、ミソラに振るったデッキブラシをとんでもないタイミングで弾かれてしまった当人が、茫然として叔母の顔を見、ぎこちなく振り返って、泥濘にひっくり返った白い皿を見た。
「……あ、の……」
 一度目を逸らすともう元に戻せなくなってしまったトウヤが、やっとの思いでそれだけ言うと。
「――晩ご飯抜き!」
 それだけ、雷鳴のような怒号が飛んだ。
 ぴしゃんと戸を閉まった。誰も何も言えなかった。ただ、ホースが吐き続ける水の音と、ピィ、とメグミの鳴き声が、泥まみれの裏庭を悠然と抜けていった。







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