ベスト プレイス





 見渡す限り、漆黒の平原。
 男はちらりと眼下に目をやると、ゆったりと欄干にもたれかかった。
 頭上には大きな月が白く浮かび、塵のような星屑が乱雑にばら撒かれている。
 黒塗りの世界。無機質な外灯が点々と、夜闇に沈む足元を浮かび上がらせる。
 細い鉄柵に身を預けたまま、傍らの相棒のタンクを撫でる。長いことそこにじっとしていたせいか、その体はひどく冷たく感じる。使い込み傷だらけで、それでもきれいに磨かれた銀色のマフラーは、鈍く月明かりを反射している。
 柄にもなく、男は微笑んだ。目を閉じると、こいつと共に駆け抜けた日々が、瞼の裏に次々と映し出される。
 まるで走馬灯だ。これじゃあ、俺死ぬみたいじゃねえか――ひとりごちて、しかし、と彼は思う。確かに死ぬのだろう。今日、ここで、彼はひとつの終わりを迎える。
 何故だろう、ひどく穏やかな気分だった。排気音が単騎で近づいてくるのにも、彼は顔さえ向けなかった。
「ヒデアキ」
 赤塗りのバイクから下りてくる馴染みの顔にも、今日はもはや虚勢を張る気にさえなれない。
「リュウジ――聞いてくれ。あぁ、もう、何もかも、ここで終わるんだ。俺は」
「……あぁ」
 リュウジと呼ばれたスキンヘッドの青年がエンジンキーを回すと、夜更けのシリンダーブリッジは再び静寂に包まれた。
 リュウジが隣に立ち、細い目で夜空を見上げる。背を押す風が、リュウジのジャケットの襟を揺らし、ヒデアキと呼ばれた男の短い髪を揺らす。羊水に浮かんでいるような心地よい安堵感を、二人は感じていた。ここは、彼らの“シマ”だ。彼ら、暴走族ブラックエンペルトの、最後の楽園(パラダイス)――……だから彼らは、いつだって、この鉄の橋の上に立つと、目に映る全てのものが自らのものであるような、妙な浮遊感を覚えた。
「……本当に、ヘッドを降りるのか」
 沈黙を破ったのはリュウジの方だった。あぁ、とヒデアキの低い声が、暗闇の中へと溶け込んで消える。
「ゾクもきっぱり辞める。こいつとも、日が昇るまでの付き合いだ」
 そう言って愛おしそうに自らのバイクに触れるヒデアキの姿を、リュウジは胸が詰まる思いで眺めていた。
 ほぅ、とどちらともなく吐かれる息は、白く濁り、広い世界へと霧散していく。
「……やはり、妹さんのことか」
 リュウジの言葉に、ヒデアキは若干の不快感を顔に滲ませる。
「何を馬鹿なことを……あいつは関係ない」
 凍える相棒を慰めるようにタンクを撫で続ける手は、しかし僅かに震えている。
 ヒデアキは努めて無心になった。闇に目を向ければ、あの柔らかな面影が、嫌でも目の前に浮かんでくる。
「あいつが生きようが、死のうが、全く関係のないことだ」
 そうかねぇ、と、普段は寡黙なリュウジが、からかうような語調で呟いた。
 カッ、と軽い音がした。リュウジは視線だけつつ、と動かした。愛車と同じく傷物のモンスターボールを構えたヒデアキが、まっすぐリュウジへと向き直っている。
 大河からの夜風が吹き荒び、鉄の橋の網目の中を、びゅうびゅうと駆け抜けていく。
「それ以上言うと、こいつが噛むぞ」
 どすの利いた低い声。それがヒデアキのいつもの調子だった。はいよ、と呟くと、リュウジは彼にしては優しい表情で、静かに瞼を下ろした。


 そしてまたしばらく、何もない時間が流れる。
 この橋が好きだった。ヒデアキは強くそう思う。悪ぶって、好き勝手して、上っ面の強がりを並べる俺たちを、いつだってシリンダーブリッジは同じ顔で迎えてくれる。明るい世界に馴染めなかった俺たちを、無機質な暗がりが抱いてくれる。
 ワルが、ワルっぽく暴れても、鉄でくみ上げられた橋は、びくともせずに受け止める。そんな強さが好きだった。雨が降ろうと、吹雪が猛ろうとも、橋はいつだって無表情に立っている。そんな冷たさが好きだった。金網越しに見る視界の底を、自分たちよりも一層派手な騒音を撒き散らしながら、幾度も列車が駆け抜けていく。そんなスリルが大好きだった。
 行き場を失くし、落ちるところまで落ちた若者たちが、最後に流れ着く場所。誰にも邪魔をさせまいと、暴走族の一員として、いつからか総長(ヘッド)として、多くの人間たちを退けてきた。――そんな刺激的な日々も、共に空虚な現実に抗ってきたたくさんの仲間たちも、やがて迎える日の出とともに、全て失ってしまうのだ。
 悔いはない、と心の中で繰り返す。妹の無邪気な笑顔がよぎる。誰よりも迷惑をかけた。心配をかけた。己は真面目に勤勉に、親の期待に添うように人生を歩みながらも、同じ道を踏み外した兄のことを、一度たりとも蔑まなかった。病魔に冒され、巣食われ蝕まれ、もがき苦しみながらも、決して笑顔を絶やさなかった。そんな大切な、たった一人の妹が、ついに病に打ち負けた今、彼女に投げっぱなしだった家業を引き継ぐことに、もう、なんの躊躇いも、ない。
「――行くか」
 その声に、リュウジが視線を上げる。キーを突き刺すと、黒銀の相棒は、暗闇を引き裂くように咆哮した。シートに跨ると、心地よい振動が体の芯まで伝わってくる。見上げると、夜空はゆっくりと色を取り戻しつつある。別れの時間が迫ってきたのだ。
「さあ」
 リュウジは要領よくバイクに飛び乗ると、ぎらついた目でヒデアキを見やった。
「見せてくれ。ブラックエンペルト総長(ヘッド)、ヒデアキの、トップスピードってやつを!」
「――任せろ!」
 いつものように、ハンドルを回し、スタンドを蹴り飛ばす――まるで生きているかのようにそれに応えて、鉄の馬は走り出した。


 暁、濃い紫に滲む空、白波立つ大河川、息衝きはじめた陸と陸とを、がっしりと繋ぐシリンダーブリッジ。その鉄色の橋の上を、今二つのちっぽけな影が、うなりを上げて駆け抜けていく。
 先を行くヒデアキは左に体重を乗せ、ぎゅんと180度のターンを見せる。リュウジは涼しい顔でついてくる。二人の前には、長く長く金網のストレートが続いている。全体重を前にかけ、ヒデアキは、思いの全てを乗せるように、全力でハンドルを回した。
 黒銀と赤のバイクの距離が、みるみるうちに広がっていく。
 早朝の風が頬を切る。目が乾いて視界が霞む。全身が痺れるように熱い。あまりの鼓動の高まりに、ヒデアキは我を忘れた。それでも彼には分かっていた。改造に改造を重ねた愛しい相棒が、トップスピードを出し続ければどうなるかぐらい、今や骨身に染みついていることである。
 あぁ、と男は声を漏らした。色づきはじめた目の前の世界が、涙の膜で歪んでいく。あぁ、嘘だ。嘘だろう? 悲痛な叫びは声にならない。こんな、こんなにも命を燃やせる瞬間が――あぁ、もう刹那のうちに、永遠の終わりを迎えてしまうなんて。
 突然、ベキャッ、と音がして、黒銀のバイクは、どこからともなくめちゃくちゃに壊れて、大小のパーツを吹き飛ばしながら鉄の橋の上を踊り狂って転がってった。
 広い橋の中央へと、ヒデアキの体も打ちつけられた。ギャン、ギギャンッとひどい金属音が反響する中で、もう一台のエンジンも段々と音を弱め、動かないヒデアキの横へと滑り込んで停止した。
 心臓まで響く聞きなれたエンジン音がこだまする世界の中で、ヒデアキは鉄網の上に仰向けに寝転んだまま、両手で顔を覆った。
 終わったのだ。今この瞬間から、俺の体は、味気ない世界の常識の中へと、ずぶずぶ沈んでいくのだろう。
「おい、てめぇら」
 はっきりと発せられたその言葉に、ヒデアキへと視線を落としていたリュウジは、ゆっくりと振り返る――そこには、ヘッドの元へと集う暴走族ブラックエンペルトの面々が、ずらりと顔を揃えていた。
「……総長(ヘッド)の俺は死んだが」
 キョウジ、エイキチ、フィリップ、モーガン、ジムとサブ……誰もが皆、口をへの字に曲げて、総長の最後の言葉に聞き入っていた。
「俺の、魂は、絶対に忘れない……てめぇらのこと、俺たちブラックエンペルトの、最後の楽園(パラダイス)のことを」
 気がつけば、眩いばかりの朝日が揺れる水面を美しく照らし、青ざめた空が、高く遠く広がっている。
 夜が明けちまった。……目元を手の平で抑えたまま、ヒデアキは、にっと口の端をつり上げた。
「ここが、てめぇらの、居場所(ベスト プレイス)だ」


 静まり返った明け方のシリンダーブリッジの上、砕け散ったバイクの破片の散らばる中に、体格のいい男が一人、仰向けに寝転がっていた。
 ヒデアキは心の中で、仲間としてのリュウジの、最後の言葉を反芻していた。
『お前は、この橋に似ている……飾り立てず、無骨な姿を晒し、やかましい喧噪も振動も何食わぬ顔で耐え抜いて、どっしりとそこにあって、どうしようもないクズの俺たちのことを、くだらない世界へと繋ぎ渡してくれる……こんなにも腐りきった、醜くて汚くて、けれどどうにも捨てがたい、そんなブラックエンペルトの世界へと』
「……笑わせるな」
 そう言って小さく微笑む男の下を、始発のまばらに人を乗せた電車が、あっという間に走り去っていった。








*****
POKENOVELさんで行われた2010年秋企画の参加作品。




<ノベルTOPへ>